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トップ > 太宰Web文庫 > 兄たち
兄たち (p2/7)
 父がなくなったときは、長兄は大学を出たばかりの二十五歳、次兄は二十三歳、三男は二十歳、私が十四歳でありました。兄たちは、みんな優しく、そうして大人びていましたので、私は、父に死なれても、少しも心細く感じませんでした。長兄を、父と全く同じことに思い、次兄を苦労した伯父さんの様に思い、甘えてばかりいました。私が、どんなひねこびた我儘《わがまま》いっても、兄たちは、いつも笑って許してくれました。私には、なんにも知らせず、それこそ私の好きなように振舞わせて置いてくれましたが、兄たちは、なかなか、それどころでは無く、きっと、百万以上はあったのでしょう、その遺産と、亡父の政治上の諸勢力とを守るのに、眼に見えぬ努力をしていたにちがいありませぬ。たよりにする伯父さんというような人も無かったし、すべては、二十五歳の長兄と、二十三歳の次兄と、力を合せてやって行くより他に仕方がなかったのでした。長兄は、二十五歳で町長さんになり、少し政治の実際を練習して、それから三十一歳で、県会議員になりました。全国で一ばん若年の県会議員だったそうで、新聞には、A県の近衛《このえ》公とされて、漫画なども出てたいへん人気がありました。
 長兄は、それでも、いつも暗い気持のようでした。長兄の望みは、そんなところに無かったのです。長兄の書棚には、ワイルド全集、イプセン全集、それから日本の戯曲家の著書が、いっぱい、つまって在りました。長兄自身も、戯曲を書いて、ときどき弟妹たちを一室に呼び集め、読んで聞かせてくれることがあって、そんな時の長兄の顔は、しんから嬉しそうに見えました。私は幼く、よくわかりませんでしたけれど、長兄の戯曲は、たいてい、宿命の悲しさをテエマにしているような気がいたしました。なかでも、「奪い合い」という長編戯曲に就《つ》いては私は、いまでも、その中の人物の表情までも、はっきり思い出すことができるのであります。
 長兄が三十歳のとき、私たち一家で、「青んぼ」という可笑《おか》しな名前の同人雑誌を発行したことがあります。そのころ美術学校の塑像《そぞう》科に在籍中だった三男が、それを編輯《へんしゅう》いたしました。
「青んぼ」という名前も、三男がひとりで考案して得意らしく、表紙も、その三男が画《か》いたのですけれども、シュウル式の出鱈目《でたらめ》のもので、銀粉をやたらに使用した、わからない絵でありました。長兄は、創刊号に随筆を発表しました。
「めし」という題で、長兄が、それを私に口述筆記させました。いまでも覚えて居ります。二階の西洋間で、長兄は、両手をうしろに組んで天井を見つめながら、ゆっくり歩きまわり、
「いいかね、いいかね、はじめるぞ。」
「はい。」
「おれは、ことし三十になる。孔子は、三十にして立つ、と言ったが、おれは、立つどころでは無い。倒れそうになった。生き甲斐《がい》を、身にしみて感じることが無くなった。強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱい

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