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花燭 (p2/16)
       一

 祝言《しゅうげん》の夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖《ふすま》のそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台《しまだい》に飾られてある伊勢|海老《えび》が、まだ生きていて、大きな髭《ひげ》をゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。
 私がこれから物語ろうと思ういきさつの男女も、このような微笑の初夜を得るように、私は衷心《ちゅうしん》から祈っている。
 東京の郊外に男爵と呼ばれる男がいた。としのころ三十二、三と見受けられるが、或《ある》いは、もっと若いのかも知れない。帝大の経済科を中途退学して、そうして、何もしない。月々、田舎から充分の仕送りがあるので、四畳半と六畳と八畳の、ひとり者としては、稍《や》や大きすぎるくらいの家を借りて、毎晩さわいでいる。もっとも、騒ぐのは、男爵自身ではなかった。訪問客が多いのである。実に多い。男爵と同じように、何もしないで、もっぱら考えてばかりいる種属の人たちである。例外なく貧しかった。なんらかの意味で、いずれも、世の中から背徳者の折紙をつけられていた。ほんの通りがかりの者ですけれども、お内があんまり面白そうなので、つい立ち寄らせていただきました、それでは、お邪魔させていただきます、などと言い、一面識もないあかの他人が、のこのこ部屋へはいり込んで来ることさえあった。そんな場合、さあ、さあ、と気軽に座蒲団《ざぶとん》をすすめる男は、男爵でなかった。よく思い切って訪ねて来て呉《く》れましたね、とほめながらお茶を注《つ》いでやる別の男は、これも男爵でなかった。君の眼は、嘘つきの眼ですね、と突然言ってその新来の客を驚愕《きょうがく》させる痩《や》せた男は、これも男爵でなかった。それでは男爵はどこにいるか。その八畳の客間の隅に、消えるように小さく坐って、皆の談論をかしこまって聞いている男が、男爵である。頗《すこぶ》るぱっとしない。五尺二、三寸の小柄の男で、しかも痩せている。つくづくその顔を眺めてみても、別段これという顔でない。浅黒く油光りして、顎《あご》の鬚《ひげ》がすこし伸びている。丸顔というではなし、さりとて長い顔でもなし、ひどく煮え切らない。髪の毛は、いくぶん長く、けれども蓬髪《ほうはつ》というほどのものではなし、それかと言ってポマアドで手入れしている形跡も見えない。あたりまえの鉄縁の眼鏡を掛けている。甚《はなは》だ、非印象的である。それ故、訪問客たちは、お互い談論にふけり男爵の存在を忘れていることが多いのである。談じて、笑って、疲れて、それからふと隅の男爵に気附いて、おや、君はまだそこにいたのか、などと言い大あくびしながら、
「煙草がなくなっちゃったな。」
「ああ、」と男爵は微笑して立ちあがり、「僕もね、さっきから煙草吸いたくて。」嘘である。男爵は、煙草を吸わないひとであった。「買って来よう。」気軽に出かける。
 男爵というのは、謂《い》わば綽名《あだな》である。北国の地主のせがれに過ぎない。

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