リイズ (p2/4) 杉野君は、洋画家である。いや、洋画家と言っても、それを職業としているのでは無く、ただいい画をかきたいと毎日、苦心しているばかりの青年である。おそらくは未だ、一枚の画も、売れた事は無かろうし、また、展覧会にさえ、いちども入選した事は無いようである。それでも杉野君は、のんきである。そんな事は、ちっとも気にしていないのである。ただ、ひたすらに、いい画をかきたいと、そればかり日夜、考えているのである。母ひとり、子ひとりの家庭である。いま住んでいる武蔵野町の家は、三年まえ、杉野君の設計に拠《よ》って建てられたものである。もったいないほど立派なアトリエも、ついている。五年まえに父に死なれてからは、母は何事に於ても、杉野君の言うとおりにしている様子である。杉野君の故郷は北海道、札幌市で、かなりの土地も持っているようであるが、母は三年前、杉野君の指図《さしず》に従い、その土地の管理は、すべて支配人に委せて、住み馴れた家をも売却し、東京へ出て来て、芸術家の母としての生活を、はじめたわけである。杉野君は、ことし二十八歳であるが、それでも、傍で見て居られないほど、母に甘え、また、子供らしいわがままを言っている。家の中では、たいへん威張り散らしているが、一歩そとへ出ると、まるで意気地《いくじ》が無い。私が、杉野君と知合いになったのは、いまから五年まえである。そのころ杉野君は、東中野のアパートから上野の美術学校に通《かよ》っていたのであるが、その同じアパートに私も住んでいて、廊下で顔を合わせる時があると、杉野君は、顔をぽっと赤くして、笑とも泣きべそともつかぬへんな表情を浮かべ、必ず小さい咳《せき》ばらいを一つするのである。何とか挨拶を述べているつもりなのかも知れない。ずいぶん気の弱い学生だと思った。だんだん親しくなり、そのうちに父上の危篤《きとく》の知らせがあって、彼はその故郷からの電報を手に持って私の部屋へはいるなり、わあんと、叱られた子供のような甘えた泣き声を挙《あ》げた。私は、いろいろなぐさめて、すぐに出発させた。そんな事があってから、私たちは、いよいよ親しくなり、彼が武蔵野町に綺麗な家を建て、お母さんと一緒に住むようになってからも、私たちは時々、往き来《き》しているのである。いまは私も、東中野のアパートを引き上げ、この三鷹町のはずれに小さい家を借りて住んでいるのであるから、お互の往き来には便利である。先日、めずらしく佳い天気だったので、私は、すぐ近くの井の頭公園へ、紅葉を見に出かけ、途中で気が変って杉野君のアトリエを訪問した。杉野君は、ひどく意気込んで私を迎えた。 「ちょうどいいところだった。きょうからモデルを使うのです。」 私は驚いた。杉野君は極度の恥ずかしがりやなので、いま迄いちども、モデルを自分のアトリエに呼びいれた事は無かったのである。人物といえば、お母さんの顔をかいたり、また自画像をかいたりするくらいで、あとは、たいてい風景や、静物ばかりをかいていたのである。上野に一軒、モデルを周旋《しゅうせん》してくれる家があるようであるが、杉野君はいつも、その家の前まで行ってはむなしく引返して来るらしいのである。なんとも恥ずかしくて、仕様が無いらしいのである。私は玄関に立ったままで、 「君が行って、たのんで来たのかね。」
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