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トップ > 太宰Web文庫 > やんぬる哉
やんぬる哉 (p5/5)
んたちにたよらず、立派に自力で更生の道を切りひらいて行くべきだと思う。とこうまあ謂《い》わば正論を以《もっ》て一矢《いっし》報いてやったのですね、そうすると、そのお隣りの細君が泣き出しましてね、私たちは何もいままで東京で遊んでいたわけじゃない、ひどい苦労をして来たんだ、とか何とか、まあ愚痴《ぐち》ですね、涙まじりにくどくど言って、うちの細君の創意工夫のアメリカソバをごちそうになって帰りましたが、どうも、あの疎開者というものは自分で自分をみじめにしていますね、おや、お帰りですか、まだよろしいじゃありませんか、リンゴ酒をさあどうぞ、まだだいぶ残っています、これ一本だけでもどうか召し上ってしまって下さい。僕はどうせ飲まないのですから、そうですか、どうしてもお帰りになりますか、ざんねんですね。うちの細君も、もう帰って来る頃ですから、ゆっくり、東京の空襲の話でも。」
 私にはその時突然、東京の荻窪《おぎくぼ》あたりのヤキトリ屋台が、胸の焼き焦《こ》げるほど懐しく思い出され、なんにも要らない、あんな屋台で一串二銭のヤキトリと一杯十銭のウィスケというものを前にして思うさま、世の俗物どもを大声で罵倒《ばとう》したいと渇望《かつぼう》した。しかし、それは出来ない。私は微笑して立ち上り、お礼とそれからお世辞を言った。
「いい奥さんを持って仕合せです。」往来を、大きなカボチャを三つ荒縄でくくって背負い、汗だくで歩いているおかみさんがある。私はそれを指さして、「たいていは、あんなひどいものなんですからね。創意も工夫もありやしない。」医師は、妙な顔をして、ええ、と言った。はっと思うまもなく、その女は、医師の家の勝手口にはいった。やんぬる哉《かな》。それが、すなわち、細君御帰宅。

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