フォスフォレッスセンス (p3/6) 夜寝る時には、またその妻に逢《あ》える楽しい期待を持っているのである。「しばらく逢わなかったけど、どうしたの?」 「桜桃《おうとう》を取りに行っていたの。」 「冬でも桜桃があるの?」 「スウィス。」 「そう。」 食慾も、またあの性慾とやらも、何も無い涼しい恋の会話が続いて、夢で、以前に何度も見た事のある、しかし、地球の上には絶対に無い湖のほとりの青草原に私たち夫婦は寝ころぶ。 「くやしいでしょうね。」 「馬鹿だ。みな馬鹿ばかりだ。」 私は涙を流す。 そのとき、眼が覚める。私は涙を流している。眠りの中の夢と、現実がつながっている。気持がそのまま、つながっている。だから、私にとってこの世の中の現実は、眠りの中の夢の連続でもあり、また、眠りの中の夢は、そのまま私の現実でもあると考えている。 この世の中に於ける私の現実の生活ばかりを見て、私の全部を了解することは、他の人たちには不可能であろう。と同時に、私もまた、ほかの人たちに就《つ》いて、何の理解するところも無いのである。 夢は、れいのフロイド先生のお説にしたがえば、この現実世界からすべて暗示を受けているものなのだそうであるが、しかしそれは、母と娘は同じものだという暴論のようにも私には思われる。そこには、つながりがありながら、また本質的な差異のある、別箇の世界が展開せられている筈《はず》である。 私の夢は現実とつながり、現実は夢とつながっているとはいうものの、その空気が、やはり全く違っている。夢の国で流した涙がこの現実につながり、やはり私は口惜《くや》しくて泣いているが、しかし、考えてみると、あの国で流した涙のほうが、私にはずっと本当の涙のような気がするのである。 たとえば、或る夜、こんなことがあった。 いつも夢の中で現れる妻が、 「あなたは、正義ということをご存じ?」 と、からかうような口調では無く、私を信頼し切っているような口調で尋ねた。 私は、答えなかった。 「あなたは、男らしさというものをご存じ?」 私は、答えなかった。 「あなたは、清潔ということをご存じ?」 私は、答えなかった。 「あなたは、愛ということをご存じ?」
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