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トップ > 太宰Web文庫 > フォスフォレッスセンス
フォスフォレッスセンス (p2/6)
「まあ、綺麗《きれい》。お前、そのまま王子様のところへでもお嫁に行けるよ。」
「あら、お母さん、それは夢よ。」
 この二人の会話に於いて、一体どちらが夢想家で、どちらが現実家なのであろうか。
 母は、言葉の上ではまるで夢想家のようなあんばいだし、娘はその夢想を破るような所謂《いわゆる》現実家みたいなことを言っている。
 しかし、母は実際のところは、その夢の可能性をみじんも信じていないからこそ、そのような夢想をやすやすと言えるのであって、かえってそれをあわてて否定する娘のほうが、もしや、という期待を持って、そうしてあわてて否定しているもののように思われる。
 世の現実家、夢想家の区別も、このように錯雑しているものの如《ごと》くに、此頃《このごろ》、私には思われてならぬ。
 私は、この世の中に生きている。しかし、それは、私のほんの一部分でしか無いのだ。同様に、君も、またあのひとも、その大部分を、他のひとには全然わからぬところで生きているに違いないのだ。
 私だけの場合を、例にとって言うならば、私は、この社会と、全く切りはなされた別の世界で生きている数時間を持っている。それは、私の眠っている間の数時間である。私はこの地球の、どこにも絶対に無い美しい風景を、たしかにこの眼で見て、しかもなお忘れずに記憶している。
 私は私のこの肉体を以《もっ》て、その風景の中に遊んだ。記憶は、それは、現実であろうと、また眠りのうちの夢であろうと、その鮮やかさに変りが無いならば、私にとって、同じような現実ではなかろうか。
 私は、睡眠のあいだの夢に於いて、或《あ》る友人の、最も美しい言葉を聞いた。また、それに応ずる私の言葉も、最も自然の流露の感じのものであった。
 また私は、眠りの中の夢に於いて、こがれる女人から、実は、というそのひとの本心を聞いた。そうして私は、眠りから覚めても、やはり、それを私の現実として信じているのである。
 夢想家。
 そのような、私のような人間は、夢想家と呼ばれ、あまいだらしない種族のものとして多くの人の嘲笑《ちょうしょう》と軽蔑の的にされるようであるが、その笑っているひとに、しかし、笑っているそのお前も、私にとっては夢と同じさ、と言ったら、そのひとは、どんな顔をするであろうか。
 私は、一日八時間ずつ眠って夢の中で成長し、老いて来たのだ。つまり私は、所謂《いわゆる》この世の現実で無い、別の世界の現実の中でも育って来た男なのである。
 私にはこの世の中の、どこにもいない親友がいる。しかもその親友は生きている。また私には、この世のどこにもいない妻がいる。しかもその妻は、言葉も肉体も持って、生きている。
 私は眼が覚めて、顔を洗いながら、その妻の匂いを身近に感ずる事が出来る。そうして、

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