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火の鳥 (p3/33)
 そのまま、乙彦は外へ出た。ステツキを振つて日比谷のはうへ、ぶらぶら歩いた。たそがれである。うすら寒かつた。はき馴れぬフエルト草履で、歩きにくいやうに見えた。日比谷。すきやばし、尾張町。
 こんどはステツキをずるずる引きずつて、銀座を歩いた。何も見なかつた。ぼんやり水平線を見てゐるやうな眼差《まなざし》で、ぶらぶら歩いた。落葉が風にさらはれたやうに、よろめき、資生堂へはひつた。資生堂のなかには、もう灯がともつてゐて、ほの温かつた。熱いコーヒーを、ゆつくりのんだ。サンドヰツチを、二切たべて、よした。資生堂を出た。
 日が暮れた。
 こんどはステツキを肩にかついで、ぶらぶら歩いた。ふとバアへ立ち寄つた。
「いらつしやい。」
 隅のソフアに腰をおろした。深い溜息をついて、それから両手で顔を覆つたが、はつと気を取り直して顔をしやんと挙げ、
「ウヰスキイ。」と低く呟くやうに言つて、すこし笑つた。
「ウヰスキイは、」
「なんでもいい。普通のものでいいのだ。」
 六杯、続け様《ざま》に、のんだ。
「おつよいのね。」
 女が、両側に坐つてゐた。
「さうか。」
 乙彦は、少し蒼くなつて、さうして、なんにも言はなかつた。
 女たちは、手持ちぶさたの様子であつた。
「かへる。いくらだ。」
「待つて。」左手に坐つてゐた断髪の女が、乙彦の膝を軽くおさへた。「困つたわね。雨が降つてるのよ。」
「雨。」
「ええ。」
 逢つたばかりの、あかの他人の男女が、一切の警戒と含羞とポオズを飛び越え、ぼんやり話を交してゐる不思議な瞬間が、この世に、在る。
「いやねえ。あたし、この半襟かけてお店《みせ》に出ると、きつと雨が降るのよ。」
 ちらと見ると、浅黄色のちりめんに、銀糸の芒《すすき》が、雁の列のやうに刺繍されてある古めかしい半襟であつた。
「晴れないかな。」そろそろポオズが、よみがへつて来てゐた。
「ええ。お草履ぢや、たいへんでせう。」
「よし、のまう。」
 その夜は、ふたり、帝国ホテルに泊つた。朝、中年の給仕人が、そつと部屋へはひつて来て、ぴくつと立ちどまり、それから、おだやかに微笑した。

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