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陰火 (p6/13)
もつと冷いものを。もつと冷いものを。よろめきながらもおれは陣容をたて直したのである。
 おれは、AプラスBの二乘の公式を心のなかで誦した。そのつぎには、AプラスBプラスCの二乘の公式について、研究した。
 君は不思議なおももちを裝うておれの話を聞いてゐる。けれども、おれは知つてゐる。おそらくは君も、おれのやうな災難を受けたときには、いや、もつと手ぬるい問題にあつてさへ君の日ごろの高雅な文學論を持てあまして、數學はおろか、かぶと蟲いつぴきにさへとりすがらうとするであらう。
 おれは人體の内臟器官の名稱をいちいち數へあげながら、友人の居るアパアトに足を踏みいれた。
 友人の部屋の扉をノツクしてから、廊下の東南の隅につるされてある丸い金魚鉢を見あげ、泳いでゐる四つの金魚について、その鰭の數をしらべた。友人は、まだ寢てゐたのであつた。片眼だけをしぶくあけて、出て來た。友人の部屋へはひつて、おれはやうやくほつとした。
 いちばん恐ろしいのは孤獨である。なにか、おしやべりをしてゐると助かる。相手が女だと不安だ。男がよい。とりわけ好人物の男がよい。この友人はかういふ條件にかなつてゐる。
 おれは友人の近作について饒舌をふるつた。それは二十號の風景畫であつた。彼にしては大作の部類である。水の澄んだ沼のほとりに、赤い屋根の洋館が建つてゐる畫であつた。友人は、それを内氣らしくカンヴアスを裏がへしにして部屋の壁へ寄せかけて置いたのに、おれは、躊躇せずそれをまたひつくりかへして眺めたのである。おれはそのときどんな批評をしたのであらうか。もし、君の藝術批評が立派なものであるとしたなら、おれはそのときの批評も、まんざらではなかつたやうである。なぜと言つて、おれもまた君のやうに、一言なかるべからず式の批評をしたからである。モチイフについて、色彩について、構圖について、おれはひとわたり難癖をつけることができた。能ふかぎりの概念的な言葉でもつて。
 友人はいちいちおれの言ふことを承認した。いやいや、おれは始めから友人に言葉をさしはさむ餘裕をさへ與へなかつたほど、おしやべりをつづけたのである。
 しかし、かういふ饒舌も、しんから安全ではない。おれは、ほどよいところで打ち切つて、この年少の友に將棋をいどんだ。ふたりは寢床のうへに坐つて、くねくねと曲つた線のひかれてあるボオル紙へ駒をならべ、早い將棋をなんばんとなくさした。友人はときどき永いふんべつをしておれに怒られ、へどもどとまごつくのであつた。たとへ一瞬時でも、おれは手持ちぶさたな思ひをしたくなかつたのである。
 こんなせつぱつまつた心がまへは所詮ながくつづかぬものである。おれは將棋にさへ危機を感じはじめた。やうやく疲勞を覺へたのだ。よさう、と言つて、おれは將棋の道具をとりのけ、その寢床のなかへもぐり込んだ。友人もおれとならんで仰向けにころがり煙草をふかした。おれは、うつかり者。休止は、おれにとつては大敵なのだつた。かなしい影がもうは

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