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トップ > 太宰Web文庫 > 陰火
陰火 (p3/13)
 さすがに彼はその名聲にすこし浮はついた。工場の改革などをはかつたのである。さうして、いちどでこりこりした。手も足も出ないのだとあきらめた。支配人にすべてをまかせた。彼の代になつて、かはつたのは、洋室の祖父の肖像畫がけしの花の油畫と掛けかへられたことと、まだある、黒い鐵の門のうへに佛蘭西風の軒燈をぼんやり灯した。
 すべてが、もとのままであつた。變化は外からやつて來た。父にわかれて二年目の夏のことであつた。そのまちの銀行の樣子がをかしくなつたのである。もしものときには、彼の家も破産せねばいけなかつた。
 救濟のみちがどうやらついた。しかし、支配人は工場の整理をもくろんだのである。そのことが使用人たちを怒らせた。彼には、永いあひだ氣にかけてゐたことが案外はやく來てしまつたやうな心地がした。奴等の要求をいれさせてやれ、と彼はわびしいよりむしろ腹立たしい氣持ちで支配人に言ひつけた。求められたものは與へる。それ以上は與へない。それでいいだらう? と彼は自身のこころに尋ねた。小規摸の整理がつつましく行はれた。
 その頃から寺を好き始めた。寺は、すぐ裏の山のうへでトタンの屋根を光らせてゐた。彼はそこの住職と親しくした。住職は痩せ細つて老いぼれてゐた。けれども右の耳朶がちぎれてゐて黒い痕をのこしてゐるので、ときどきは兇惡な顏にも見えた。夏の暑いまさかりでも、彼は長い石段をてくてくのぼつて寺へかよふのである。庫裡の縁先には夏草が高くしげつてゐて、鷄頭の花が四つ五つ咲いてゐた。住職はたいてい晝寢をしてゐるのであつた。彼はその縁先からもしもしと聲をかけた。時々とかげが縁の下から青い尾を振つて出て來た。
 彼はきやうもんの意味に就いて住職に問ふのであつた。住職はちつとも知らなかつた。住職はまごついてから、あはははと聲を立てて笑ふのであつた。彼もほろにがく笑つてみせた。それでよかつた。ときたま住職へ怪談を所望した。住職は、かすれた聲で二十いくつの怪談をつぎつぎと語つて聞せた。この寺にも怪談があるだらう、と追及したら、住職は、とんとない、と答へた。
 それから一年すぎて、彼の母が死んだ。彼の母は父の死後、彼に遠慮ばかりしてゐた。あまりおどおどして、命をちぢめたのである。母の死とともに彼は寺を厭いた。母が死んでから始めて氣がついたことだけれども、彼の寺沙汰は、母への奉仕を幾分ふくめてゐたのであつた。
 母に死なれてからは、彼は小家族のわびしさを感じた。妹ふたりのうち、上のは、隣のまちの大きい割烹店へとついでゐた。下のは、都の、體操のさかんな或る私立の女學校へかよつてゐて、夏冬の休暇のときに歸郷するだけであつた。黒いセルロイドの眼鏡をかけてゐた。彼等きやうだい三人とも、眼鏡をかけてゐたのである。彼は鐵ぶちを掛けてゐた。姉娘は細い金ぶちであつた。
 彼はとなりまちへ出て行つてあそんだ。自分の家のまはりでは心がひけて酒もなんにも飮めなかつた。となりのまちでささやかな醜聞をいくつも作つた。やがてそれにも疲れた。
 子供がほしいと思つた。少くとも、子供は妻との氣まづさを救へると考へた。彼には妻のからだがさかなくさくてかなはなかつた。鼻に附いたのである。

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