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トップ > 太宰Web文庫 > パンドラの匣
パンドラの匣 (p5/76)
と、周囲の圧迫からちょっとのがれたような気楽さを覚えるのだ。この一、二年、僕はこの畑の主任みたいなものになってしまっていた。草をむしり、また、からだにさわらぬ程度で、土を打ちかえし、トマトに添木を作ってやったり、まあ、こんな事でも少しは食料増産のお手伝いにはなるだろうと、その日その日をごまかして生きていたのだけれども、けれども、君、どうしてもごまかし切れぬ一塊の黒雲のような不安が胸の奥底にこびりついていて離れないのだ。こんな事をして暮して、いったい僕はこれから、どんな身の上になるのだろう。なんの事はない、てもなく癈人《はいじん》じゃないか。そう思うと、呆然《ぼうぜん》とする。どうしてよいか、まるで見当も何もつかなくなるのだ。そうして、こんなだらし無い自分の生きているという事が、ただ人に迷惑をかけるばかりで、全然無意味だと思うと、なんとも、つらくてかなわなかったのだ。君のような秀才にはわかるまいが、「自分の生きている事が、人に迷惑をかける。僕は余計者だ。」という意識ほどつらい思いは世の中に無い。

     3

 けれども君、僕がこんな甘ったれた古くさい薄のろの悩みを続けているうちにも、世界の風車はクルクルと眼にとまらぬ早さでまわっていたのだ。欧洲《おうしゅう》に於いてはナチスの全滅、東洋に於いては比島決戦についで沖縄《おきなわ》決戦、米機の日本内地爆撃、僕には兵隊の作戦の事などほとんど何もわからぬが、しかし、僕には若い敏感なアンテナがある。このアンテナは信頼できる。一国の憂鬱《ゆううつ》、危機、すぐにこのアンテナは、ぴりりと感ずる。理窟《りくつ》は無いんだ。勘だけなんだ。ことしの初夏の頃から、僕のこの若いアンテナは、嘗《か》つてなかったほどの大きな海嘯《かいしょう》の音を感知し、震えた。けれども僕には何の策も無い。ただ、あわてるばかりだ。僕は滅茶苦茶《めちゃくちゃ》に畑の仕事に精出した。暑い日射《ひざ》しの下で、うんうん唸《うな》りながら重い鍬《くわ》を振り廻して畑の土を掘りかえし、そうして甘藷《かんしょ》の蔓を植えつけるのである。なんだって毎日、あんなに烈《はげ》しく畑の仕事を続けたのか、僕には今もってよくわからない。自分のやくざなからだが、うらめしくて、思い切りこっぴどく痛めつけてやろうという、少しやけくそに似た気持もあったようで、死ね! 死んでしまえ! 死ね! 死んでしまえ! と鍬を打ちおろす度毎《たびごと》に低く呻《うめ》くように言い続けていた日もあった。僕は甘藷の蔓を六百本植えた。
「畑の仕事も、もういい加減によすんだね。お前のからだには少し無理だよ。」と夕食の時にお父さんに言われて、それから三日目の深夜、夢うつつの裡《うち》に、こんこんと咳《せ》き込んで、そのうちに、ごろごろと、何か、胸の中で鳴るものがある。ああ、いけない、とすぐに気附《きづ》いて、はっきり眼が覚めた。喀血の前に、胸がごろごろ鳴るという事を僕は、或る本で読んで知っていたのだ。腹這いになった途端に、ぐっと来た。口の中に一ぱい、生臭い匂《にお》いのものを含みながら、僕は便所へ小走りに走った。やはり血だった。便所にながいこと立っていたが、それ以上は血が出なかった。僕は忍び足で台所へ行き、塩水でうがいをして、それから顔も手も洗って寝床へ帰った。咳《せき》の出ないよう

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