母 (p2/9) 昭和二十年の八月から約一年三箇月ほど、本州の北端の津軽の生家で、所謂《いわゆる》疎開《そかい》生活をしていたのであるが、そのあいだ私は、ほとんど家の中にばかりいて、旅行らしい旅行は、いちども、しなかった。いちど、津軽半島の日本海側の、或《あ》る港町に遊びに行ったが、それとて、私の疎開していた町から汽車で、せいぜい三、四時間の、「外出」とでも言ったほうがいいくらいの小旅行であった。けれども私は、その港町の或る旅館に一泊して、哀話、にも似た奇妙な事件に接したのである。それを、書こう。 私が津軽に疎開していた頃は、私のほうから人を訪問した事は、ほとんど無かったし、また、私を訪問して来る人もあまり無かった。それでも時たま、復員の青年などが、小説の話を聞かして下さい、などと言ってやって来る。 「地方文化、という言葉がよく使われているようですが、あれは、先生、どういう事なんでしょうか。」 「うむ。僕にもよくわからないのだがね。たとえば、いまこの地方には、濁酒がさかんに作られているようだが、どうせ作るなら、おいしくて、そうしてたくさん飲んでも二日酔いしないような、上等なものを作る。濁酒に限らず、イチゴ酒でも、桑《くわ》の実酒でも、野葡萄《のぶどう》の酒でも、リンゴの酒でも、いろいろ工夫《くふう》して、酔い心地のよい上等品を作る。たべものにしても同じ事で、この地方の産物を、出来るだけおいしくたべる事に、独自の工夫をこらす。そうして皆で愉快に飲みかつ食う。そんな事じゃ、ないかしら。」 「先生は、濁酒などお飲みになりますか。」 「飲まぬ事もないが、そんなに、おいしいとは思わない。酔い心地も、結構でない。」 「しかし、いいのもありますよ。清酒とすこしも変らないのも、このごろ出来るようになったのです。」 「そうか。それがすなわち、地方文化の進歩というものなのかも知れない。」 「こんど、先生のところに持って来てもいいですか。先生は、飲んで下さいますか。」 「それは、飲んであげてもいい。地方文化の研究のためですからね。」 数日後に、その青年は、水筒にお酒をつめて持って来た。 私は飲んでみて、 「うまい。」 と言った。 清酒と同様に綺麗《きれい》に澄んでいて、清酒よりも更に濃い琥珀《こはく》色で、アルコール度もかなり強いように思われた。 「優秀でしょう?」 「うむ。優秀だ。地方文化あなどるべからずだ。」 「それから、先生、これが何だかわかりますか?」 青年は持参の弁当箱の蓋《ふた》をひらいて卓上に置いた。
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