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トップ > 太宰Web文庫 > 花吹雪
花吹雪 (p6/15)
のを、上に向けてねじってある。今初めて見る顔である。
 その男がこう云った。
「へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあった。」
 こう言いながら、火鉢を少し持ち上げて、畳を火鉢の尻で二、三度とんとんと衝《つ》いた。大沼の重りの象徴にする積《つも》りと見える。
「今度の奴は生利に小細工をしやがる。今に見ろ、大臣に言って遣《や》るから。(間。)此間委員会の事を聞きに往ったとき、好くも幹事に聞けなんと云って返したな。こん度逢ったら往来へ撮《つま》み出して遣る。往来で逢ったら刀を抜かなけりゃならないようにして遣る。」
 左隣の謡曲はまだ済まない。(中略)右の耳には此脅迫の声が聞えるのである。僕は思い掛けない話なので、暫《しばら》くあっけに取られていた。(中略)そして今度逢ったらを繰り返すのを聞いて、何の思索の暇もなくこう云った。
「何故今遣らないのだ。」
「うむ。遣る。」
 と叫んで立ち上がる。
 以上は鴎外の文章の筆写であるが、これが喧嘩のはじまりで、いよいよ組んづほぐれつの、つかみ合いになって、
(中略)
 彼は僕を庭へ振り落そうとする。僕は彼の手を放すまいとする。手を引き合った儘《まま》、二人は縁から落ちた。
 落ちる時手を放して、僕は左を下に倒れて、左の手の甲を花崗岩で擦《す》りむいた。立ち上がって見ると、彼は僕の前に立っている。
 僕には此時始めて攻勢を取ろうという考が出た。併《しか》し既に晩《おそ》かった。
 座敷の客は過半庭に降りて来て、別々に彼と僕とを取り巻いた。彼を取り巻いた一群は、植込の間を庭の入口の方へなだれて行く。
 四五人の群が僕を宥《なだ》めて縁から上がらせた。左の手の甲が血みどれになっているので、水で洗えと云う人がある。酒で洗えと云う人がある。近所の医者の処へ石炭酸水を貰いに遣れと云う人がある。手を包めと云って紙を出す。手拭を出す。(中略)
 鴎外の描写は、あざやかである。騒動が、眼に見えるようだ。そうしてそれから鴎外は、「皆が勧めるから嫌な酒を五六杯飲んだ。」と書いてある。顔をしかめて、ぐいぐい飲んだのであろう。やけ酒に似ている。この作品発表の年月は、明治四十二年五月となっている。私たちの生れない頃である。鴎外の年譜を調べてみると、鴎外はこの時、四十八歳である。すでにその二年前の明治四十年、十一月十五日に陸軍々医総監に任ぜられ、陸軍省医務局長に補せられている。その前年の明治三十九年に、功三級に叙せられ、金鵄勲章《きんしくんしょう》を授けられ、また勲二等に叙せられ、旭日重光章を授けられているのである。自重しなければならぬ人であったのに、不良少年じみた新聞記者と、

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