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トップ > 太宰Web文庫 > 花吹雪
花吹雪 (p3/15)
 なに、むずかしい事はありません。つまらぬ知識に迷わされるからいけない。女は、うぶ。この他には何も要《い》らない。田舎でよく見かける風景だが、麦畑で若いお百姓が、サトやああい、と呼ぶと、はるか向うでそのお里さんが、はああい、と実になんともうれしそうな恥ずかしそうな返事をするね。あれだ。あれだよ。あれでいいのだ。諸君が、もし恋愛小説を書くんだったら、あのような健康な恋愛をこそ書くべきですね。男と女が、コオヒイと称する豆の煮出汁に砂糖をぶち込んだものやら、オレンジなんとかいう黄色い水に蜜柑《みかん》の皮の切端を浮べた薄汚いものを、やたらにがぶがぶ飲んで、かわり番こに、お小用に立つなんて、そんな恋愛の場面はすべて浅墓というべきです。先日、私は近所の高砂館へ行って久し振りに活動を見て来たが、なんとかいう旧劇にちょっといい場面が一つありました。若侍が剣術の道具を肩にかついで道場から帰る途中、夕立になって、或る家の軒先に雨宿りするのですが、その家には十六、七の娘さんがいてね、その若侍に傘《かさ》をお貸ししようかどうしようかと玄関の内で傘を抱いたままうろうろしているのですね。あれは実に可愛かった。私はあの若侍を嫉妬《しっと》しました。女は、あのようでなければいけない。若い男のお客さんにお茶を差出す時なんか、緊張のあまり、君たちの言葉を遣《つか》えば、つまり、意識過剰という奴をやらかして、お茶碗をひっくり返したりする実に可愛い娘さんがいるものだが、あんなのが、まあ女性の手本と言ってよい。男は何かというと、これは、私も最近ようやく気附いた事で、この大発見を諸君に易々と打明けるのは惜しいのであるが、(そうおっしゃらずに、へへ、と言いし学生あり。師を軽んずるは古来、文科学生の通弊とす。)ただいま期せずして座の一隅より、切望懇願のうめき声が発せられたようでもあり、まあ致しかた無い、御伝授しましょう。男子の真価は、武術に在り! (一座色をなせり。逃仕度《にげじたく》せし臆病の学生もあった。)強くなくちゃいけない。柔道五段、剣道七段、あるいは弓術でも、からて術でも、銃剣術でも、何でもよいが、二段か三段くらいでは、まだ心細い。すくなくとも、五段以上でなければいけない。愚かな意見とお思いの方もあるだろうが、たとい国の平和な時でも、男子は常に武術の練磨に励まなければいかなかったのだ。科学者たらんとする者も、政治家たらんとする者も、また宗教家、あるいは、そこに(速記者のほうを、ぐいと顎《あご》でしゃくって、)いらっしゃる芸術家の卵にしても、まず第一に、武術の練磨に努めなければならなかったのに、うかつにも之《これ》を怠っていたので、ごらんのとおり皆さん例外なく卑屈である。怒り給うな。私だって諸君と同じ事です。私は過去に於いて、政治運動をした事もある。演劇の団体に関係した事もある、工場を経営した事もある、胃腸病の薬を発明した事もある、また、新体詩というものを試みた事だってある。けれども、一つとして、ものにならなかった。いつもびくびくして、自己の力を懐疑し、心の落ちつく場所は無く、お寺へかよって禅を教えてもらったり、或《ある》いは部屋に閉じこもって、手当り次第、万巻いや千巻くらいの書を読みちらしたり、大酒を飲んだり、女に惚れた真似をしたり、さまざまに工夫してみたのであるが、どうしても自分の生き方に自信を持てなかった。新劇の運動に参加しても、すぐに、これでいいのか、という疑問が生じて、それこそ三日経てば、いやになったほうです。何か自分に根本的
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