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トップ > 太宰Web文庫 > 如是我聞
如是我聞 (p6/20)
 自分は、かつて聖書の研究の必要から、ギリシャ語を習いかけ、その異様なよろこびと、麻痺剤《まひざい》をもちいて得たような不自然な自負心を感じて、決して私の怠惰からではなく、その習得を抛棄《ほうき》した覚えがある。あの不健康な、と言っていいくらいの奇妙に空転したプライドの中に君たちが平気でいつも住んでいるものとしたら、それは或いは、あのイエスに、「汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、云々《うんぬん》」と言われても仕方がないのではないかと思われる。
 勉強がわるくないのだ。勉強の自負がわるいのだ。
 私は、君たちの所謂「勉強」の精華の翻訳を読ませてもらうことによって、実に非常なたのしみを得た。そのことに就いては、いつも私は君たちにアリガトウの気持を抱き続けて来たつもりである。しかし、君たちのこの頃のエッセイほど、みじめな貧しいものはないとも思っている。
 君たちは、(覚えておくがよい)ただの語学の教師なのだ。家庭円満、妻子と共に、おしるこ万才を叫んで、ボオドレエルの紹介文をしたためる滅茶もさることながら、また、原文で読まなければ味がわからぬと言って自身の名訳を誇って売るという矛盾も、さることながら、どだい、君たちには「詩」が、まるでわかっていないようだ。
 イエスから逃げ、詩から逃げ、ただの語学の教師と言われるのも口惜しく、ジャアナリズムの注文に応じて、何やら「ラビ」を装っている様子だが、君たちが、世の中に多少でも信頼を得ている最後の一つのものは何か。知りつつ、それを我が身の「地位」の保全のために、それとなく利用しているのならば、みっともないぞ。
 教養? それにも自信がないだろう。どだい、どれがおいしくて、どれがまずいのか、香気も、臭気も、区別が出来やしないんだから。ひとがいいと言う外国の「文豪」或いは「天才」を、百年もたってから、ただ、いいというだけなんだから。
 優雅? それにも、自信がないだろう。いじらしいくらいに、それに憧《あこが》れていながら、君たちに出来るのは、赤瓦の屋根の文化生活くらいのものだろう。
 語学には、もちろん自信無し。
 しかし、君たちは何やら「啓蒙家《けいもうか》」みたいな口調で、すまして民衆に説いている。
 洋行。
 案外、そんなところに、君たちと民衆とのだまし合いが成立しているのではないか。まさか、と言うこと勿《なか》れ。民衆は奇態に、その洋行というものに、おびえるくらい関心を持つ。
 田舎者の上京ということに就いて考えて見よう。二十年前に、上野の何とか博覧会を見て、広小路の牛《ぎゅう》のすき焼きを食べたと言うだけでも、田舎に帰れば、その身に相当の箔《はく》がついているものである。民衆は、これに一目《いちもく》をおくのだから、こたえられまい。況《いわ》んや、東京で三年、苦学して法律をおさめた(しかし、それは、通信講義録でも、おさめることが出来るようだが)そのような経歴を持ったとあれば、村

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