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東京だより (p3/3)
で、私は事務所の片隅の小さい椅子に腰かけて、ぼんやり待っているのですが、実はそんなにぼんやりしているのでもなかったのです。私は、目の前で執務している十人ばかりの女の子を、ひそかに観察していたのです。みんなもう、見事なくらい、平然と私を黙殺しています。女の子から黙殺されるのは、私も幼少の頃から馴《な》れていますので、かくべつ驚きもしませんが、でもこの黙殺の仕方は、少しも高慢の影は無く、ひとりひとり違った心の表情も認められず、一様にうつむいてせっせと事務を執っているだけで、来客の出入にもその静かな雰囲気は何の変化も示さず、ただ算盤《そろばん》の音と帳簿を繰る音が爽《さわ》やかに聞こえて、たいへん気持のいい眺めなのでした。どの子の顔にも、これという異なった印象は無く、羽根の色の同じな蝶々がひっそり並んで花の枝にとまっているような感じなのですが、でも、ひとり、どういうわけか、忘れられない印象の子がいたのです。これは、働く少女たちの間では、実に稀《まれ》な現象です。働く少女たちには、ひとりひとりの特徴なんか少しも無い、と前にも申し上げましたが、その工場の事務所にひとり、どうしても他の少女と全く違う感じのひとがいたのです。顔も別に変っていません。やや面長の、浅黒い顔です。服装も変っていません。みんなと同じ黒い事務服です。髪の形も変っていません。どこも、何も、変っていません。それでいて、その人は、たとえば黒いあげは蝶の中に緑の蝶がまじっているみたいに、あざやかに他の人と違って美しいのです。そうです。美しいのです。何のお化粧もしていません。それでも、ひとり、まるで違って美しいのです。私は、不思議でなりませんでした。白状すると、私は、事務所であの画かきさんを待っているあいだ、その不思議な少女の顔ばかり見ていました。これは、先祖の血だ、と私はもっともらしく断定を下して、落ちつく事にしました。その父か母に昔から幾代か続いた高貴の血があって、それゆえ、この人の何の特徴もない姿からでもこんな不思議な匂いが発するのだ。実に父祖の血は人間にとって重大なものだ、などと溜息《ためいき》をついて、ひとりで興奮していたのですが、それは、違いました。私のそんな独《ひと》り合点《がてん》は、見事にはずれていました。そのひとの際立《きわだ》った不思議な美しさの原因は、もっと厳粛な、崇高といっていいほどのせっぱつまった現実の中にあったのです。或る夕方、私は、三度目の工場訪問を終えて工場の正門から出た時、ふと背後に少女たちの合唱を聞き、振りむいて見ると、きょうの作業を終えた少女たちが二列縦隊を作って、産業戦士の歌を高く合唱しながら、工場の中庭から出て来るところでした。私は立ちどまって、その元気な一隊を見送りました。そうして私は、愕然《がくぜん》としました。あの事務所の少女が、みなからひとりおくれて、松葉杖をついて歩いて来るのです。見ているうちに、私の眼が熱くなって来ました。美しい筈だ、その少女は生れた時から足が悪い様子でした。右足の足首のところが、いや、私はさすがに言うに忍びない。松葉杖をついて、黙って私の前をとおって行きました。

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