答案落第 (p3/3) まい、とファン囁《ささや》き、選手自身もひそかにそれを許していた、かの俊敏はやぶさの如き太宰治とやらいう若い作家の、これが再生の姿であろうか。頭はわるし、文章は下手、学問は無し、すべてに無器用、熊の手さながら、おまけに醜貌、たった一つの取り柄は、からだの丈夫なところだけであった。案外、長生きするのではないか。 こんな、ばかばなしをしていたのでは、きりがない。何かひとつ、実《み》になる話でもしようかね。実になる、ならない、もへんなもので、むかし発電機の発明をして得々としていたところ、一貴婦人から、けれども博士、その電気というものが起ったからって、それがどうなるのですの? と質問され、博士大いに閉口して、奥さま、生れたばかりの赤ん坊に、おまえは何を建設するのだい? と質問してみて下さい、と答えて逃げ去ったとかいう話しがあるけれども、何千万年まえの世界には、どんな動物がいたか、一億年のちにはこの世界はどんなになるか、そんな話は、いったい実になるものかどうか。私は実になる話だと思っているが。 ヴァニティ。この強靭《きょうじん》をあなどってはいけない。虚栄は、どこにでもいる。僧房の中にもいる。牢獄の中にもいる。墓地にさえ在る。これを、見て見ぬふりをしては、いけない。はっきり向き直って、おのれのヴァニティと対談してみるがいい。私は、人の虚栄を非難しようとは思っていない。ただ、おのれのヴァニティを鏡にうつしてよく見ろ、というのである。見た、結果はむりに人に語らずともよい。語る必要はない。しかし、いちどは、はっきり、合せ鏡して見とどけて置く必要は、ある。いちど見た人は、その人は、思案深くなるだろう。謙譲になるだろう。神の問題を考えるようになるだろう。 重ねていう。私は、ヴァニティを悪いものだとは言っていない。それは或る場合、生活意慾と結びつく。高いリアリティとも結びつく。愛情とさえ結びつく。私は、多くの思想家たちが、信仰や宗教を説いても、その一歩手前の現世のヴァニティに莫迦《ばか》正直に触れていないことを不思議がっているだけである。パスカルは、少々。 ヴァニティは、あわれなものである。なつかしいものである。それだけ、閉口なものである。 ながいことである。大マラソンである。いますぐいちどに、すべて問題を解決しようと思うな。ゆっくりかまえて、一日一日を、せめて悔いなく送りたまえ。幸福は、三年おくれて来る、とか。
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