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トップ > 太宰Web文庫 > 小さいアルバム
小さいアルバム (p3/7)
それは、私ひとりに限られたひそかな感慨で、よその人が見たって、こんなもの、ちっとも面白くもなんとも無いかも知れません。今夜は、どうも、他に話題も無いし、せっかくおいで下さったのになんのおかまいも出来ず、これでは余り殺風景ですから、窮した揚句の果に、こんなものを持ち出したのですから、そこのところは貧者一燈の心意気にめんじて、面白くもないだろうけれど見てやって下さい。
 一つ、説明してあげましょうか。下手な紙芝居みたいになるかも知れませんが、笑わずに、まあ聞き給え。
 あまり古い写真は無い。前にも言ったように、移転やら大掃除やらで、いつのまにか無くなってしまいました。アルバムの最初のペエジには、たいてい、その人の父母の写真が貼《は》られているものですが、私のアルバムにはそれも無い。父母の写真どころか、肉親の写真が一枚も無い。いや去年の秋、すぐ上の姉がその幼い長女と共に写した手札型の写真を一枚送ってよこしたが、本当に、その写真一枚きりで、他の肉親の写真は何も無いのだ。私がわざと肉親の写真を排除したわけではない。十数年前から、故郷の肉親たちと文通していないので、自然と、そんな結果になってしまったのだ。また、たいていのアルバムには、その持主の赤児の時の写真、あるいは小学生時代の写真などもあって興を添えているものだが、私のアルバムには、それも無い。故郷の家には、保存されているかも知れぬが、私の手許《てもと》には無い。だから、このアルバムを見ただけでは、人は私を、どこの馬の骨だか見当も何もつかぬ筈《はず》です。考えてみると、うすら寒いアルバムですね。開巻、第一ペエジ、もう主人公はこのとおり高等学校の生徒だ。実に、唐突《とうとつ》な第一ペエジです。
 これはH高等学校の講堂だ。生徒が四十人ばかり、行儀よくならんでいるが、これは皆、私の同級生です。主任の教授が、前列の中央に腰かけていますね。これは英語の先生で、私は時々、この先生にほめられた。笑っちゃいけない。本当ですよ。私だって、このころは、大いに勉強したものだ。この先生にばかりでなく、他の二、三の先生にもほめられた。本当ですよ。首席になってやろうと思って努力したが、到底だめだった。この、三列目の端に立っている小柄な生徒、この生徒だけには、どうしてもかなわなかった。こいつは、出来た。こんな、ぼんやりした顔をしていながら、実に、よく出来た。意気込んだところが一つも無くて、そうして堅実だった。あんなのを、ほんものというのかも知れない。いまは朝鮮の銀行に勤めているとかいう話だが、このひとに較べたら私なんかは、まず、おっちょこちょいの軽薄才士とでもいったところかね。見給え、私がこの写真のどこにいるか、わかるかね? そうだ、その主任の教授にぴったり寄り添って腰かけて、いかにも、どうも、軽薄に、ニヤリと笑っている生徒が私だ。十九歳にして、既にこのように技巧的である。まったく、いやになるね。なぜ、笑ったりなんかしているのだろう。見給え、この約四十人の生徒の中で、笑っているのは、私ひとりじゃないか。とても厳粛な筈の記念撮影に、ニヤリと笑うなどとは、ふざけた話だ。不謹慎だよ。どうして、こうなんだろうね。撮影の前のドサクサにまぎれて、いつのまにやら、ちゃんと最前列の先生の隣席に坐ってニヤリと笑っている。呆《

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