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トップ > 太宰Web文庫 > たずねびと
たずねびと (p3/8)
《すご》い月夜でした。夜ふけてから私はひとりで外へ出て見ました。このあたりも、まず、あらかた焼かれていました。私は上野公園の石段を登り、南洲の銅像のところから浅草のほうを眺めました。湖水の底の水草のむらがりを見る思いでした。これが東京の見おさめだ、十五年前に本郷の学校へはいって以来、ずっと私を育ててくれた東京というまちの見おさめなのだ、と思ったら、さすがに平静な気持では居られませんでした。翌朝とにかく上野駅から一番早く出る汽車、それはどこへ行く汽車だってかまわない、北のほうへ五里でも六里でも行く汽車があったら、それに乗ろうという事になって、上野駅発一番列車、夜明けの五時十分発の白河《しらかわ》行きに乗り込みました。白河には、すぐ着きました。私たちはそこで降されて、こんどはまた白河から五里でも六里でも北へ行く汽車をつかまえて、それに乗り込む事にしました。午後一時半に、小牛田《こごた》行きの汽車が白河駅にはいりましたので、親子四人、その列車の窓から這《は》い込みました。前の汽車と違って、こんどの汽車は、ものすごく混雑していました。それにひどい暑さで、妻のはだけた胸に抱き込まれている二歳の男の子は、ひいひい泣き通しでした。この下の子は、母体の栄養不良のために生れた時から弱く小さく、また母乳不足のためにその後の発育も思わしくなくて、ただもう生きて動いているだけという感じで、また上の五歳の女の子は、からだは割合丈夫でしたが、甲府で罹災する少し前から結膜炎を患《わずら》い、空襲当時はまったく眼が見えなくなって、私はそれを背負って焔《ほのお》の雨の下を逃げまわり、焼け残った病院を捜して手当を受け、三週間ほど甲府でまごまごして、やっとこの子の眼があいたので、私たちもこの子を連れて甲府を出発する事が出来たというわけなのでした。それでも、やはり夕方になると、この子の眼がふさがってしまって、そうして朝になっても眼がひらかず、私は医者からもらって来た硼酸水《ほうさんすい》でその眼を洗ってやって、それから眼薬をさして、それからしばらく経たなければ眼があかないという有様でした。その朝、上野駅で汽車に乗る時にも、この子の眼がなかなか開かなかったので、私が指で無理にあけたら、血がたらたら出ました。
 つまり私たちの一行は、汚いシャツに色のさめた紺《こん》の木綿《もめん》のズボン、それにゲエトルをだらしなく巻きつけ、地下足袋《じかたび》、蓬髪《ほうはつ》無帽という姿の父親と、それから、髪は乱れて顔のあちこちに煤《すす》がついて、粗末極まるモンペをはいて胸をはだけている母親と、それから眼病の女の子と、それから痩《や》せこけて泣き叫ぶ男の子という、まさしく乞食の家族に違いなかったわけです。
 下の男の子が、いつまでも、ひいひい泣きつづけ、その口に妻が乳房を押しつけても、ちっとも乳が出ないのを知っているので顔をそむけ、のけぞっていよいよ烈《はげ》しく泣きわめきます。近くに立っていたやはり子持ちの女のひとが見かねたらしく、
「お乳が出ないのですか?」
 と妻に話掛けて来ました。
「ちょっと、あたしに抱かせて下さい。あたしはまた、乳がありあまって。」
 妻は泣き叫ぶ子を、そのおかみさんに手渡しました。そのおかみさんの乳房からは乳がよ

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