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トップ > 太宰Web文庫 > 惜別
惜別 (p4/75)
的政治的の意図よりは、あの人たちの面影をただていねいに書きとめて置こうという祈念のほうが強いのは致し方の無い事だろう。けれども私は、それはまた、それで構わないと思っている。大善を称するよりは小善を積め、という言葉がある。恩師と旧友の面影を正すというのは、ささやかな仕事に似て、また確実に人倫の大道に通じているかも知れないのである。まあ、いまの老齢の私に出来る精一ぱいの仕事、というようなところであろう。このごろは、この東北地方にもしばしば空襲警報が鳴って、おどろかされているが、しかし、毎日よく晴れた上天気で、この私の南向きの書斎は火鉢《ひばち》が無くても春の如くあたたかく、私の仕事も、敵の空襲に妨げられ萎縮するなどの事なく順調に進んで行きそうな、楽しい予感もする。

 さて、私の胸底の画像と言っても、果して絶対に正確なものかどうか、それはどうも保証し難い。自分では事実そのままに語っているつもりでも、凡愚の印象というものは群盲象をさぐるの図に似て、どこかに非常な見落しがあるかも知れず、それに、もうこれは四十年も昔の事で、凡愚の印象さらにあいまいの度を加えて、ただいま恩師と旧友の肖像を正さんと意気込んで筆を執《と》っても、内心はなはだ心細いところが無いでもない。まあ、あまり大きい慾を起さず、せめて一面の真実だけでも書き残す事が出来たら満足という気持で書く事にしよう。どうも、としをとると、愚痴《ぐち》やら弁解やら、言う事が妙にしちくどくなっていけない。どうせ、私には名文も美文も書けやしないのだから、くどくどと未練がましい申しわけを言うのはもうやめて、ただ「辞ハ達スル而已《ノミ》矣」という事だけを心掛けて、左顧《さこ》も右眄《うべん》もせずに書いて行けばいいのであろう。「爾《ナンジ》ノ知ラザル所ハ、人ソレ諸《コレ》ヲ舎《ス》テンヤ」である。
 私が東北の片隅《かたすみ》のある小さい城下町の中学校を卒業して、それから、東北一の大都会といわれる仙台市に来て、仙台医学専門学校の生徒になったのは、明治三十七年の初秋で、そのとしの二月には露国に対し宣戦の詔勅《しょうちょく》が降り、私の仙台に来たころには遼陽《りょうよう》もろく陥落《かんらく》し、ついで旅順《りょじゅん》総攻撃が開始せられ、気早な人たちはもう、旅順陥落ちかしと叫び、その祝賀会の相談などしている有様。殊にも仙台の第二師団第四聯隊は、榴《つつじ》ヶ岡《おか》隊と称《とな》えられて黒木第一軍に属し、初陣の鴨緑江《おうりょっこう》の渡河戦に快勝し、つづいて遼陽戦に参加して大功を樹《た》て、仙台の新聞には「沈勇なる東北兵」などという見出しの特別読物が次々と連載せられ、森徳座という芝居小屋でも遼陽陥落万々歳というにわか仕立ての狂言を上場したりして、全市すこぶる活気|横溢《おういつ》、私たちも医専の新しい制服制帽を身にまとい、何か世界の夜明けを期待するような胸のふくれる思いで、学校のすぐ近くを流れている広瀬川の対岸、伊達《だて》家三代の霊廟《れいびょう》のある瑞鳳殿《ずいほうでん》などにお参りして戦勝の祈願をしたものだ。上級生たちの大半の志望は軍医になっていますぐ出陣する事で、まことに当時の人の心は、単純とでも言おうか、生気|溌剌《はつらつ》たるもので、学生たちは下宿で徹宵《てっしょう》、新兵器の発明に就《つ》いて議論をして、それもいま思うと噴《ふ》き出したくなるような、たとえば旧藩時代

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