正義と微笑 (p6/95) のごろの憂鬱《ゆううつ》は、なんの事は無い、来年の一高受験にだけ原因しているのかも知れない。ああ、試験はいやだ。人間の価値が、わずか一時間や二時間の試験で、どしどし決定せられるというのは、恐ろしい事だ。それは、神を犯す事だ。試験官は、みんな地獄へ行くだろう。兄さんは僕を買いかぶっているもんだから、大丈夫、四年から受けてパスできるさ、と言っているが、僕には全く自信が無い。けれども僕は、中学生生活は、もう、ほとほといやになったのだから来年は、一高を失敗しても、どこか明るい大学の予科にでも、さっさとはいってしまうつもりだ。さて、それから僕は一生涯《いっしょうがい》の不動の目標を樹立して進まなければならぬのだが、これが、むずかしい問題なのだ。一体どうすればいいのか、僕には、さっぱりわからない。ただ、当惑して、泣きべそを掻《か》くばかりだ。「偉い人物になれ!」と小学校の頃からよく先生たちに言われて来たけど、あんないい加減な言葉はないや。何がなんだか、わからない。馬鹿にしている。全然、責任のない言葉だ。僕はもう子供でないんだ。世の中の暮しのつらさも少しずつ、わかりかけて来ているのだ。たとえば、中学校の教師だって、その裏の生活は、意外にも、みじめなものらしい。漱石《そうせき》の「坊ちゃん」にだって、ちゃんと書かれているじゃないか。高利貸の世話になっている人もあるだろうし、奥さんに呶鳴《どな》られている人もあるだろう。人生の気の毒な敗残者みたいな感じの先生さえ居るようだ。学識だって、あんまり、すぐれているようにも見えない。そんなつまらない人が、いつもいつも同じ、あたりさわりの無い立派そうな教訓を、なんの確信もなくべらべら言っているのだから、つくづく僕らも学校がいやになってしまうのだ。せめて、もっと具体的な身近かな方針でも教えてくれたら、僕たちは、どんなに助かるかわからない。先生御自身の失敗談など、少しも飾らずに聞かせて下さっても、僕たちの胸には、ぐんと来るのに、いつもいつも同じ、権利と義務の定義やら、大我と小我の区別やら、わかり切った事をくどくどと繰り返してばかりいる。きょうの修身の講義など、殊《こと》に退屈だった。英雄と小人《しょうじん》という題なんだけど、金子先生は、ただやたらに、ナポレオンやソクラテスをほめて、市井《しせい》の小人のみじめさを罵倒《ばとう》するのだ。それでは、何にもなるまい。人間がみんな、ナポレオンやミケランジェロになれるわけじゃあるまいし、小人の日常生活の苦闘にも尊いものがある筈だし、金子先生のお話は、いつもこんなに概念的で、なっていない。こんな人をこそ、俗物というのだ。頭が古いのだろう。もう五十を過ぎて居られるんだから、仕方が無い。ああ、先生も生徒に同情されるようになっちゃ、おしまいだ。本当に、この人たちは、きょうまで僕になんにも教えてはくれなかった。僕は来年、理科か文科か、どちらかを決定的に選ばなければならぬのだ! 事態は急迫しているのだ。まったく、深刻にもなるさ。どうすればよいのか、ただ、迷うばかりだ。学校で、金子先生の無内容なお話をぼんやり聞いているうちに、僕は、去年わかれた黒田先生が、やたら無性《むしょう》に恋いしくなった。焦《こ》げつくように、したわしくなった。あの先生には、たしかになにかあった。だいいち、利巧だった。男らしく、きびきびしていた。中学校全体の尊敬の的だったと言ってもいいだろう。或《あ》る英語の時間に、先生は、リア王の章を静かに訳し終えて、それから、だし抜けに言い出
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