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正義と微笑 (p3/95)




 四月十六日。金曜日。
 すごい風だ。東京の春は、からっ風が強くて不愉快だ。埃《ほこり》が部屋の中にまで襲来し、机の上はざらざら、頬《ほっ》ぺたも埃だらけ、いやな気持だ。これを書き終えたら、風呂《ふろ》へはいろう。背中にまで埃が忍び込んでいるような気持で、やり切れない。
 僕《ぼく》は、きょうから日記をつける。このごろの自分の一日一日が、なんだか、とても重大なもののような気がして来たからである。人間は、十六歳と二十歳までの間にその人格がつくられると、ルソオだか誰《だれ》だか言っていたそうだが、或《ある》いは、そんなものかも知れない。僕も、すでに十六歳である。十六になったら、僕という人間は、カタリという音をたてて変ってしまった。他《ほか》の人には、気が附《つ》くまい。謂《い》わば、形而上《けいじじょう》の変化なのだから。じっさい、十六になったら、山も、海も、花も、街の人も、青空も、まるっきり違って見えて来たのだ。悪の存在も、ちょっとわかった。この世には、困難な問題が、実に、おびただしく在るのだという事も、ぼんやり予感出来るようになったのだ。だから僕は、このごろ毎日、不機嫌《ふきげん》なんだ。ひどく怒りっぽくなった。智慧《ちえ》の実を食べると、人間は、笑いを失うものらしい。以前は、お茶目で、わざと間抜けた失敗なんかして見せて家中の人たちを笑わせて得意だったのだが、このごろ、そんな、とぼけたお道化が、ひどく馬鹿《ばか》らしくなって来た。お道化なんてのは、卑屈な男子のする事だ。お道化を演じて、人に可愛《かわい》がられる、あの淋《さび》しさ、たまらない。空虚だ。人間は、もっと真面目《まじめ》に生きなければならぬものである。男子は、人に可愛がられようと思ったりしては、いけない。男子は、人に「尊敬」されるように、努力すべきものである。このごろ、僕の表情は、異様に深刻らしい。深刻すぎて、とうとう昨夜、兄さんから忠告を受けた。
「進《すすむ》は、ばかに重厚になったじゃないか。急に老《ふ》けたね。」と晩ごはんのあとで、兄さんが笑いながら言った。僕は、深く考えてから、答えた。
「むずかしい人生問題が、たくさんあるんだ。僕は、これから戦って行くんです。たとえば、学校の試験制度などに就いて、――」
 と言いかけたら、兄さんは噴き出した。
「わかったよ。でも、そんなに毎日、怖い顔をして力《りき》んでいなくてもいいじゃないか。このごろ少し痩《や》せたようだぜ。あとで、マタイの六章を読んであげよう。」
 いい兄さんなのだ。帝大の英文科に、四年前にはいったのだけれども、まだ卒業しない。いちど落第したわけなんだが、兄さんは平気だ。頭が悪くて落第したんじゃないから、決して兄さんの恥辱ではないと僕も思う。兄さんは、正義の心から落第したのだ。きっとそうだ。兄さんには、学校なんか、つまらなくて仕様が無いのだろう。毎晩、徹夜で小説を書いている。
 ゆうべ兄さんから、マタイ六章の十六節以下を読んでもらった。それは、重大な思想であった。僕は自分の現在の未熟が恥ずかしくて、頬《ほお》が赤くなった。忘れぬように、その教えをここに大きく書き写して置こう。

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