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トップ > 太宰Web文庫 > 正義と微笑
正義と微笑 (p10/95)
て、まるっきり知らないのだ。見当さえつかない。案外つまらないものかも知れない。)けれども、夫婦愛というものが、もし此の世の中にあるとしたなら、その最高のものを姉さんは実現なさるでしょう。姉さん! 僕の此の美しい「まぼろし」をこわさないで下さい。
 さらば、行け! 御無事に暮せ! もしこれが、永遠のお別れならば、永遠に、御無事に暮せ。
 以上は、姉さんだけに、こっそり話かけている気持で書いたのですが、姉さんは、この僕のひそかなお別れの言葉に、永久に気がつかないかも知れない。これは、僕ひとりの秘密の日記帳なのだから。でも、姉さんがこれを見たら、笑うだろうな。
 この、お別れの言葉を、姉さんに直接言ってあげるほどの勇気が僕に無いのは、腑甲斐《ふがい》なく、悲しい事だ。
 あすは月曜日。ブラック・デー。もう寝よう。神様。僕を忘れないで下さい。


 四月十九日。月曜日。
 だいたい晴れ。きょうは、実に不愉快だった。もう、蹴球部《しゅうきゅうぶ》を脱退しようと思った。脱退しないまでも、もう、スポーツがいやになった。これからは、いい加減に附《つ》き合ってやるんだ。きゃつらが、いい加減なのだから、仕様が無い。きょう、キャプテンの梶《かじ》を、一発なぐってやった。梶は卑猥《ひわい》だ。
 きょう放課後、部員が全部グランドにあつまって、今学年最初の練習を開始した。去年のチイムに較《くら》べて、ことしのチイムは、その気魄《きはく》に於ても、技術に於ても、がた落ちだ。これでは、今学期中に、よそと試合できるようになるかどうか、疑問である。ただ、メンバーがそろったというだけで、少しもチイムワアクがとれていない。キャプテンがいけないんだ。梶には、キャプテンの資格が無いんだ。ことし卒業の筈《はず》だったのに、落第したから、としの功でキャプテンになったのだ。チイムを統率するには、凄いキックよりも、人格の力が必要なのだ。梶の人格は低劣だ。練習中にも、汚い冗談ばっかり言い散らしている。ふざけている。梶ばかりでなく、メンバー全体が、ふざけている。だらけている。ひとりひとり襟首《えりくび》をつかまえて水につっ込んでやりたい位だった。練習が終ってから、れいに依《よ》ってすぐ近くの桃の湯に、みんなで、からだを洗いに行った。脱衣場で、梶が突然、卑猥な事を言った。しかも、僕の肉体に就いて言ったのである。それは、どうしても書きたくない言葉だ。僕は、まっぱだかのままで、梶の前に立った。
「君は、スポーツマンか?」と僕が言った。
 誰かが、よせよせと言った。
 梶は脱ぎかけたシャツをまた着直して、
「やる気か、おい。」と顎《あご》をしゃっくて、白い歯を出して笑った。
 その顔を、ぴしゃんと殴ってやった。
「スポーツマンだったら、恥ずかしく思え!」と言ってやった。
 梶は、どんと床板を蹴《け》って、
「チキショッ!」と言って泣き出した。

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