今を去ること約320年前、津軽四代藩主信政公は領内の開墾に力を注ぎ、藩士を投入して新田を開発し、米の増収を図ろうとしました。藩士たちは藩公の仰せとはいえ、武士としてはずかしめにあったように思い、新田開発の希望者は少なかったそうです。しかし、鳴海伝右衛門は、妻子と奴徳助をつれて嘉瀬に住み、近隣の百姓たちと共に藩主の命令に従い、開墾に熱意をもち、昼夜の別なく総力をあげ、数年後には三石町歩の良田を造成することに成功しました。しかし、ある年、期限に遅れて金木御蔵に年貢米を納めに行った際、かつて同僚であった者が金木御蔵の役人として出世しており、伝右衛門を見る目が意外にも冷たく、腰抜け武士の典型よと冷笑されてしまいます。伝右衛門は次第に懐疑的になり、日がたつにつれて沈みがちになっていきます。主人思いの奴徳助はこのさまをみて、恵まれない主人をなぐさめようとして思いついたのが、次の歌詞でした。
嘉瀬と金木の間の川コ、石コ流れて木の葉コ沈む
自分で節をつけ、振りつけもし、秋の取り入れの振舞酒の席や、月見の夜など自ら踊り、主人の不遇をなぐさめました。この奴徳助の心遣いに、伝右衛門は心から喜んで、自分でもこれを唄って踊りました。これが藩主の知るところとなり、やがて二人を弘前のお城に呼び、御前で唄い踊らせたところ、ことのほか喜ばれて賞讃されたと伝えられています。それからは、村人も踊りを習い、お祭りやお盆には村をあげて踊り、今日に及んでいます。(昭和51年発行「金木郷土史」参考)
(昭和44年県無形民俗文化財指定)
開催場所 | 金木町嘉瀬地区 |
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開催時期 | 8月中旬 |