犯人 (p2/10) [#ここから7字下げ]「僕はあなたを愛しています」とブールミンは言った「心から、あなたを、愛しています」 マリヤ・ガヴリーロヴナは、さっと顔をあからめて、いよいよ深くうなだれた。 [#地から1字上げ]――プウシキン(吹雪) [#ここで字下げ終わり] なんという平凡。わかい男女の恋の会話は、いや、案外おとなどうしの恋の会話も、はたで聞いては、その陳腐《ちんぷ》、きざったらしさに全身|鳥肌《とりはだ》の立つ思いがする。 けれども、これは、笑ってばかりもすまされぬ。おそろしい事件が起った。 同じ会社に勤めている若い男と若い女である。男は二十六歳、鶴田《つるた》慶助。同僚は、鶴、鶴、と呼んでいる。女は、二十一歳、小森ひで、同僚は、森ちゃん、と呼んでいる。鶴と、森ちゃんとは、好き合っている。 晩秋の或《あ》る日曜日、ふたりは東京郊外の井《い》の頭《かしら》公園であいびきをした。午前十時。 時刻も悪ければ、場所も悪かった。けれども二人には、金が無かった。いばらの奥深く掻《か》きわけて行っても、すぐ傍《そば》を分別顔《ふんべつがお》の、子供づれの家族がとおる。ふたり切りになれない。ふたりは、お互いに、ふたり切りになりたくてたまらないのに、でも、それを相手に見破られるのが羞《はずか》しいので、空の蒼《あお》さ、紅葉のはかなさ、美しさ、空気の清浄、社会の混沌《こんとん》、正直者は馬鹿を見る、等という事を、すべて上《うわ》の空《そら》で語り合い、お弁当はわけ合って食べ、詩以外には何も念頭に無いというあどけない表情を努《つと》めて、晩秋の寒さをこらえ、午後三時には、さすがに男は浮かぬ顔になり、 「帰ろうか。」 と言う。 「そうね。」 と女は言い、それから一言、つまらぬことを口走った。 「一緒に帰れるお家があったら、幸福ね。帰って、火をおこして、……三畳一間でも、……」 笑ってはいけない。恋の会話は、かならずこのように陳腐なものだが、しかし、この一言が、若い男の胸を、柄《つか》もとおれと突き刺した。 部屋。 鶴は会社の世田谷の寮にいた。六畳一間に、同僚と三人の起居である。森ちゃんは高円寺の、叔母《おば》の家に寄寓《きぐう》。会社から帰ると、女中がわりに立ち働く。 鶴の姉は、三鷹《みたか》の小さい肉屋に嫁《とつ》いでいる。あそこの家の二階が二間。 鶴はその日、森ちゃんを吉祥寺《きちじょうじ》駅まで送って、森ちゃんには高円寺行き
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