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葉 (p2/10)
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《えら》ばれてあることの
恍惚《こうこつ》と不安と
二つわれにあり
         ヴェルレエヌ
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 死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目《しまめ》が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

 ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。

 私がわるいことをしないで帰ったら、妻は笑顔をもって迎えた。

 その日その日を引きずられて暮しているだけであった。下宿屋で、たった独りして酒を飲み、独りで酔い、そうしてこそこそ蒲団《ふとん》を延べて寝る夜はことにつらかった。夢をさえ見なかった。疲れ切っていた。何をするにも物憂かった。「汲《く》み取り便所は如何《いか》に改善すべきか?」という書物を買ってきて本気に研究したこともあった。彼はその当時、従来の人糞《じんぷん》の処置には可成《かなり》まいっていた。
 新宿の歩道の上で、こぶしほどの石塊《いしころ》がのろのろ這《は》って歩いているのを見たのだ。石が這って歩いているな。ただそう思うていた。しかし、その石塊《いしころ》は彼のまえを歩いている薄汚い子供が、糸で結んで引摺《ひきず》っているのだということが直ぐに判った。
 子供に欺かれたのが淋しいのではない。そんな天変地異をも平気で受け入れ得た彼自身の自棄《やけ》が淋しかったのだ。

 そんなら自分は、一生涯こんな憂鬱と戦い、そうして死んで行くということに成るんだな、と思えばおのが身がいじらしくもあった。青い稲田が一時にぽっと霞《かす》んだ。泣いたのだ。彼は狼狽《うろた》えだした。こんな安価な殉情的な事柄に涕《なみだ》を流したのが少し恥かしかったのだ。
 電車から降りるとき兄は笑うた。
「莫迦《ばか》にしょげてるな。おい、元気を出せよ」
 そうして竜の小さな肩を扇子でポンと叩いた。夕闇のなかでその扇子が恐ろしいほど白っぽかった。竜は頬のあからむほど嬉しくなった。兄に肩をたたいて貰ったのが有難かったのだ。いつもせめて、これぐらいにでも打ち解けて呉《く》れるといいが、と果敢《はか》なくも願うのだった。
 訪ねる人は不在であった。

 兄はこう言った。「小説を、くだらないとは思わぬ。おれには、ただ少しまだるっこいだけである。たった一行の真実を言いたいばかりに百頁の雰囲気をこしらえている」私は言い

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