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トップ > 太宰Web文庫 > チャンス
チャンス (p3/9)
 つまり私は恋愛の「愛」の字、「性的愛」の「愛」の字が、気がかりでならぬのである。「愛」の美名に依って、卑猥感《ひわいかん》を隠蔽《いんぺい》せんとたくらんでいるのではなかろうかとさえ思われるのである。
「愛」は困難な事業である。それは、「神」にのみ特有の感情かも知れない。人間が人間を「愛する」というのは、なみなみならぬ事である。容易なわざではないのである。神の子は弟子たちに「七度の七十倍ゆるせ」と教えた。しかし、私たちには、七度でさえ、どうであろうか。「愛する」という言葉を、気軽に使うのは、イヤミでしかない。キザである。
「きれいなお月さまだわねえ。」なんて言って手を握り合い、夜の公園などを散歩している若い男女は、何もあれは「愛し」合っているのではない。胸中にあるものは、ただ「一体になろうとする特殊な性的|煩悶《はんもん》」だけである。
 それで、私がもし辞苑の編纂者《へんさんしゃ》だったならば、次のように定義するであろう。
「恋愛。好色の念を文化的に新しく言いつくろいしもの。すなわち、性慾衝動に基づく男女間の激情。具体的には、一個または数個の異性と一体になろうとあがく特殊なる性的煩悶。色慾の Warming-up とでも称すべきか。」
 ここに一個または数個と記したのは、同時に二人あるいは三人の異性を恋い慕い得るという剛の者の存在をも私は聞き及んでいるからである。俗に、三角だの四角だのいう馬鹿らしい形容の恋の状態をも考慮にいれて、そのように記したのである。江戸の小咄《こばなし》にある、あの、「誰でもよい」と乳母《うば》に打ち明ける恋いわずらいの令嬢も、この数個のほうの部類にいれて差《さ》し支《つか》えなかろう。
 太宰もイヤにげびて来たな、と高尚な読者は怒ったかも知れないが、私だってこんな事を平気で書いているのではない。甚《はなは》だ不愉快な気持で、それでも我慢してこうして書いているのである。
 だから私は、はじめから言ってある。
 恋愛とは何か。
 曰《いわ》く、「それは非常に恥かしいものである」と。
 その実態が、かくの如きものである以上、とてもそれは恥かしくて、口に出しては言えない言葉であるべき筈なのに、「恋愛」と臆《おく》するところ無くはっきりと発音して、きょとんとしている文化女史がその辺にもいたようであった。ましてや「恋愛至上主義」など、まあなんという破天荒《はてんこう》、なんというグロテスク。「恋愛は神聖なり」なんて飛んでも無い事を言い出して居直ろうとして、まあ、なんという図々《ずうずう》しさ。「神聖」だなんて、もったいない。口が腐りますよ。まあ、どこを押せばそんな音《ね》が出るのでしょう。色気違いじゃないかしら。とても、とても、あんな事が、神聖なものですか。
 さて、それでは、その恋愛、すなわち色慾の Warming-up は、単にチャンスに依《よ》ってのみ開始せられるものであろうか。チャンスという異国語はこの場合、日本

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