惜別 (p2/75) [#ここから2字下げ]これは日本の東北地方の某村に開業している一老医師の手記である。 [#ここで字下げ終わり] 先日、この地方の新聞社の記者だと称する不精鬚《ぶしょうひげ》をはやした顔色のわるい中年の男がやって来て、あなたは今の東北帝大医学部の前身の仙台医専を卒業したお方と聞いているが、それに違いないか、と問う。そのとおりだ、と私は答えた。 「明治三十七年の入学ではなかったかしら。」と記者は、胸のポケットから小さい手帖《てちょう》を出しながら、せっかちに尋ねる。 「たしか、その頃と記憶しています。」私は、記者のへんに落ちつかない態度に不安を感じた。はっきり言えば、私にはこの新聞記者との対談が、終始あまり愉快でなかったのである。 「そいつあ、よかった。」記者は蒼黒《あおぐろ》い頬《ほお》に薄笑いを浮かべて、「それじゃ、あなたは、たしかにこの人を知っている筈《はず》だ。」と呆《あき》れるくらいに強く、きめつけるような口調で言い、手帖をひらいて私の鼻先に突き出した。ひらかれたペエジには鉛筆で大きく、 周樹人 と書かれてある。 「存じて居ります。」 「そうだろう。」とその記者はいかにも得意そうに、「あなたとは同級生だったわけだ。そうして、その人が、のちに、中国の大文豪、魯迅《ろじん》となって出現したのです。」と言って、自身の少し興奮したみたいな口調にてれて顔をいくぶん赤くした。 「そういう事も存じて居りますが、でも、あの周さんが、のちにあんな有名なお方にならなくても、ただ私たちと一緒に仙台で学び遊んでいた頃の周さんだけでも、私は尊敬して居ります。」 「へえ。」と記者は眼を丸くして驚いたようなふうをして、「若い頃から、そんなに偉かったのかねえ。やはり、天才的とでもいったような。」 「いいえ、そんな工合ではなくて、ありふれた言い方ですが、それこそ素直な、本当に、いい人でございました。」 「たとえば、どんなところが?」と、記者は一|膝《ひざ》乗り出して、「いや、実はね、藤野先生という題の魯迅の随筆を読むと、魯迅が明治三十七、八年、日露戦争の頃、仙台医専にいて、そうして藤野厳九郎という先生にたいへん世話になった、と、まあ、そんな事が書かれているのですね、それで私は、この話をうちの新聞の正月の初刷りに、日支親善の美談、とでも言ったような記事にして発表しようと思っているのですがね、ちょうどあなたがそのころの、仙台医専の生徒だったのではあるまいかと睨《にら》んでやって来たようなわけです。いったい、どんな工合でした、そのころの魯迅は。やはりこの、青白い憂鬱《ゆううつ》そうな表情をしていたでしょうね。」
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