正義と微笑 (p4/95) 「なんじら断食《だんじき》するとき、偽善者のごとく、悲しき面容《おももち》をすな。彼らは断食することを人に顕《あらわ》さんとて、その顔色を害《そこな》うなり。誠に汝《なんじ》らに告ぐ、彼らは既にその報《むくい》を得たり。なんじは断食するとき、頭《かしら》に油をぬり、顔を洗え。これ断食することの人に顕れずして、隠れたるに在《いま》す汝の父にあらわれん為《ため》なり。さらば隠れたるに見たまう汝の父は報い給《たま》わん。」微妙な思想だ。これに較《くら》べると、僕は、話にも何もならぬくらいに単純だった。おっちょこちょいの、出しゃばりだった。反省、反省。 「微笑もて正義を為《な》せ!」 いいモットオが出来た。紙に書いて、壁に張って置こうかしら。ああ、いけねえ。すぐそれだ。「人に顕さんとて、」壁に張ろうとしています。僕は、ひどい偽善者なのかも知れん。よくよく気をつけなければならぬ。十六から二十までの間に人格が決定されるという説もある事だ。本当に、いまは大事な時なのである。 一つには、わが混沌《こんとん》の思想統一の手助けになるように、また一つには、わが日常生活の反省の資料にもなるように、また一つには、わが青春のなつかしい記録として、十年後、二十年後、僕が立派な口鬚《くちひげ》でもひねりながら、こっそり読んでほくそ笑むの図などをあてにしながら、きょうから日記をつけましょう。 けれども、あまり固くなって、「重厚」になりすぎてもいけない。 微笑もて正義を為せ! 爽快《そうかい》な言葉だ。 以上が僕の日記の開巻第一ペエジ。 それからきょうの学校の出来事などを、少し書こうと思っていたのだが、ああもう、これはひどい埃です。口の中まで、ざらざらして来た。とても、たまらぬ。風呂へはいろう。いずれまた、ゆっくり、などと書いて、ふと、なあんだ誰もお前を相手にしちゃいないんだ、と思って、がっかりした。誰も読んでくれない日記なんだもの、気取って書いてみたって、淋しさが残るばかりだ。智慧の実は、怒りと、それから、孤独を教える。 きょう学校の帰り、木村と一緒にアズキを食いに行って、いや、これは、あす書こう。木村も孤独な男だ。 四月十七日。土曜日。 風はおさまったけれど、朝はどんより曇って昼頃《ひるごろ》ちょっと雨が降り、それから、少しずつ晴れて来て、夜は月が出た。今夜は、まず、きのうの日記を読みかえしてみて、そうして恥ずかしく思った。実に下手だ。顔が赤くなってしまった。十六歳の苦悩が、少しも書きあらわされていない。文章が、たどたどしいばかりでなく、御本人の思想が幼稚なのだ。どうも、仕方がない。いま、ふと考えた事だが、なぜ僕は、四月の十六日なぞという、はんぱな日から日記を書きはじめたのだろう。自分でも、わからない。不思議である。前から日記をつけたいと思っていたのだが、おととい兄さんから、いい言葉を教えられ、それで興奮して、よし、あしたからと覚悟したのかも知れない。十六歳の十六日、マタイ六章の
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