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新郎 (p3/7)
肉もおさかなも、なんにも買えませんので、市場で買物籠さげて立ったまま泣きべそを掻《か》く事があります。」したたかに、しょげている。
 私は自分の頓馬《とんま》を恥じた。海苔が無いとは知らなかった。おそるおそる、
「梅干があるかい?」
「ございます。」
 二人とも、ほっとした。
「我慢するんだ。なんでもないじゃないか。米と野菜さえあれば、人間は結構生きていけるものだ。日本は、これからよくなるんだ。どんどんよくなるんだ。いま、僕たちがじっと我慢して居りさえすれば、日本は必ず成功するのだ。僕は信じているのだ。新聞に出ている大臣たちの言葉を、そのまま全部、そっくり信じているのだ。思う存分にやってもらおうじゃないか。いまが大事な時なんだそうだ。我慢するんだ。」梅干を頬張りながら、まじめにそんなわかり切った事を言い聞かせていると、なぜだか、ひどく痛快なのである。
 或る夜、よそで晩ごはんを食べて、山海の珍味がたくさんあったので驚いた。不思議な気がした。恥をしのんで、女中さんにこっそりたのんで、ビフテキを一つ包んでもらった。ここでおあがりになるのなら、かまわないのですが、お持ちになるのは違法なんですよ、と女中さんは当惑そうな顔をしていた。ビフテキの、ほの温い包みを持って家へ帰る。この楽しさも、ことしはじめて知らされた。私はいままで、家に手土産をぶらさげて帰るなど、絶無であった。実に不潔な、だらしない事だと思っていた。
「女中さんに三べんもお辞儀をした。苦心さんたんして持って来たんだぜ。久し振りだろう。牛の肉だ。」私は無邪気に誇った。
「くすりか何かのような気がして、」家の者は、おずおずと箸《はし》をつけた。「ちっとも食欲が起らないわ。」
「まあ、食べてみなさい。おいしいだろう? みんな食べなさい。僕は、たくさん食べて来たのだ。」
「お顔にかかわりますよ。」家の者は、意外な事を小声で言った。「私はそんなに食べたくもないのですから、女中さんに頭をさげたりなど、これからは、なさらないで下さい。」
 そう言われて私は、ちょっと具合がわるかったけれど、でも、安心の思いのほうが大きかった。たいへん安心したのである。大丈夫だ。もう家《うち》の食べものなど、全く心配しない事にしよう。「牛の肉だぞ」なんて、卑猥《ひわい》じゃないか。食べものに限らず、家の者の将来に就いても、全く安心していよう。これは、子供と一緒にかならず丈夫に育つ。ありがたいと思った。
 家の者達に就いては、いまは少しも心配していないので、毎日、私は気軽である。青空を眺めて楽しみ、煙草を吸い、それから努めて世の中の人たちにも優しくしている。
 三鷹の私の家には、大学生がたくさん遊びに来る。頭のいいのもあれば、頭のわるいのもある。けれども一様に正義派である。いまだかつて私に、金を貸せ、などと云った学生は一人も無い。かえって私に、金を貸そうとする素振りさえ見せる学生もある。一つの打算も無

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