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トップ > 太宰を知る > 太宰治の生涯 略年譜

太宰を知る - 文豪・太宰治のルーツをたどる

太宰治の生涯 ~ 略年譜 ~
幼年期~小学卒業
青森中学(現・青森高等学校)入学~弘前高等学校(現・弘前大学)入学
弘前高等学校時代
東京帝国大学時代
大学除籍~初代との離別
石原美智子との出逢い~長女園子誕生
母の死~山崎富栄との心中

明治四十二年(1909)

 六月十九日 青森県北津軽郡金木村大字朝日山四百十四番地(現在は五所川原市)に、父源右衛門・母タ子の第十子六男として生まれる。
 戸籍名は、津島修治。


父・津島源右衛門



 長男総一郎と次男勤三郎は若くして他界、三兄文治が事実上の長兄となった。
 たま、とし、あい、きやうの四人の姉と、文治の下には、英治、圭治の二人の兄がいた。
 生母タ子が病弱のため、生まれてすぐに乳母(中里村・佐々木サヨ)につく。


叔母・きゑ



 一年足らずで乳母が去った後、同居中の叔母きゑに育てられる。
 使用人を加えると、常時三十余名の大家族を抱える、県内屈指の財産家であった。


明治四十三年(1910)

 五月、近村タケが年季奉公で住み込み、太宰治の子守としてめんどうをみる。(満二~六歳まで)


明治四十五年(1912)三歳

金襖の日本間(主賓室)

大正元年
一月、長姉たまが、二十四歳で死去。
五月、父源右衛門が立憲政友会から立候補して、衆議院議員に当選。この頃から屋号を「津惣」から「ヤマゲン」に改める。(鶴丸の家紋を用いる。)
地元の人は、源右衛門を「金木の殿様」と呼んだ。
 津島家の最盛期を迎える。
七月、弟礼治誕生。


大正五年(1916)七歳

左から三姉あい、太宰治、従姉テイ、二姉トシ、四姉きゃう、従弟逸朗、弟礼治


一月、叔母きゑの一家が五所川原に分家。修治もついて行き小学校入学直前まで叔母の家で過ごした。タケはその後、分家した叔母きゑの女中となり津島家を去る。 四月、金木第一尋常小学校に入学。一年時から秀才の誉高く、特に意表をつく作文力で教師を驚かす。在学中全甲首席、総代を務めた。


大正七年(1918)九歳

七月、タケ、小泊村の越野正代へ後妻として嫁ぐ。(入籍は九月二日)


大正九年(1920)十一歳

二月、金木村に町制施行。
十二月、曾祖母さよ死去(八十歳)。


大正十一年(1922)十三歳

三月、小学校卒業。六年間全甲首席を通した。
四月、父の意向で学力補充のため同町の四カ村(金木と隣接三カ村)組合立明治高等小学校に一年間通学。
悪戯が過ぎて成績優秀にもかかわらず「修身」と「操行」を乙と評定された。
五月、文治結婚。
十二月、多額納税議員の補欠選で父が貴族院議員に当選する。

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大正十二年(1923)十四歳

三月、父源右衛門、神田小川町(東京)佐野病院に入院中に死去。享年五十二歳。
県立青森中学校(現・青森高等学校)に入学、青森の親戚豊田太左衛門方(青森市寺町十四番地)に下宿して通学。二学期から卒業まで級長を通す。
 反面、持ち前の茶目っ気を発揮してクラスの人気者になる。
 夏休みに、三兄圭治が東京から持ち帰った同人誌「世紀」の中に井伏鱒二の「幽閉」を発見。一読、「座ってをられないくらいに興奮した」。
八月、英治結婚。


大正十四年(1925)十六歳

三月、『校友会誌』に最初の創作「最後の太閤」を発表。芥川龍之介や菊地寛などの著作に親しむ。この頃から作家に対する憧れが強まる。級友との同人雑誌等に小説、戯曲、エッセイを発表。
四月、弟礼治も青森中学校に進み、豊田家に同宿す。
八月、級友と同人雑誌「星座」創刊。戯曲「虚勢」を発表したが一号限りで廃刊。
十月、宮越トキが行儀見習女中として津島家に住み込む。
十月、長兄文治が金木町長になる。辻魔首氏の筆名で校友会誌に「角力」を発表。
十一月、文学仲間を糾合して、同人雑誌『蜃気楼』創刊、編集兼発行人となる。「温泉」「犠牲」「地図」などを発表。「蜃気楼」は通巻十二号まで続く。


大正十五年(1926)十七歳

昭和元年
 「蜃気楼」に「負けぎらひト敗北ト」「侏儒楽」「針医の圭樹」「癌」「傴僂」「将軍」「哄笑に至る」「モナコ小景」「怪談」などの創作を次々と発表。芥川に心酔す。女中のトキに恋情を抱き、懊悩す。
四月、あい結婚。
九月、帰省中の三兄圭治の発案で同人誌「青んぼ」を創刊、「口紅」を発表。
 四月頃から辻島衆二の筆名を多く用いる。


昭和二年(1927)十八歳

 高校受験準備のため「蜃気楼」一月号を最後に通巻十二号で休刊。
 第四学年百六十二名中、第四席で青森中学終了。旧制中学五年制を四年で終了。
 官立弘前高等学校(現・弘前大学)文科甲類(英語)入学(一ノ組三十八名中第六席)。
 市内通学者以外の新入生は入寮する規則になっていたが、病弱のためといって弘前市の親戚・藤田豊三郎宅に下宿。文科乙類(独語)の同級生に、上田重彦(後の作家石上玄一郎)がいた。
五月二十一日、青森市で芥川龍之介が講演、「夏目漱石」と題したこの講演を聴く。
七月二十四日、芥川龍之介、睡眠薬自殺(三十五歳)に、大きな衝撃を受ける。
 この直後から、芸者だった義太夫の師匠竹本咲栄の元に通い始める。服装に凝りはじめる。
義太夫や花柳界に興味を示し、江戸文学や文人趣味に親しむようになる。
秋頃から、青森市の花柳界に出入りするようになる。青森市の芸者置屋の芸妓半玉・紅子(小山初代)と馴染みになる。
 近松門左衛門・泉鏡花・芥川らの文学に心酔す。
九月、長兄文治が金木町長を辞し、政友会県会議員に当選した。
 この年、後の武装共産党の中央委員長になる田中清玄が弘前高校文科乙類を卒業。校内では、田中が組織した社会科学研究会のメンバーが活動していた。

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昭和三年(1928)十九歳

左から三兄圭治、弟礼治、長兄文治、太宰治、次兄英治

 学業成績、急激に下降す。
五月、同期生上田重彦(後の石上玄一郎)の創作に刺激されて、個人編集の同人雑誌「細胞文芸」創刊。本格的な創作活動に入る。
 傾向小説に関心を持ち、〈辻島衆二〉の筆名で大地主の生家を告発する暴露小説「無間奈落」をはじめ「股をくゞる」「彼等と其のいとしき母」などを発表。
 九月、四号で廃刊するまでに井伏鱒二、船橋聖一等の寄稿を得る。
六月、きやう結婚。
十月、青森の同人誌「猟騎兵」に参加。
十二月、マルキスト上田重彦主幹の新聞雑誌部の委員に加わり「校友会雑誌」に、此の夫婦」を発表。この新聞雑誌部は、校内の左翼細胞の拠点になっていた。


昭和四年(1929)二十歳

一月、青森中学校在学中の弟礼治急病死。享年十八歳(敗血症)。
二月、弘前高校鈴木校長の公金無断流用が発覚。新聞雑誌部員主導で同盟休校を行い、校長排斥に成功す。
 「弘高新聞」や県内同人誌に評論や創作を発表。プロレタリア文学を意識した「地主一代」なども執筆。
小菅銀吉・大藤熊太の筆名で創作や評論を発表する。「鈴虫」「哀蚊」「虎徹宵話」「花火」などを発表。
一方青森で芸者紅子(小山初代)と逢う瀬を重ねる。
(十一月頃のカルモチン心中未遂。)
十二月十日、第二学期試験が始まる前夜、下宿先で多量のカルモチンを飲み下して昏睡状態に陥る。十一日昼頃、近所の医師が駆けつけて手当てをする。
 午後には次第に意識を取り戻した。その後、母に伴われて大鰐温泉で静養する。

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昭和五年(1930)二十一歳

一月、弘前警察署により校内左翼分子が検挙される。上田重彦ら三名は卒業直前に放校処分を受ける。新聞雑誌部の解散と「校友会雑誌」の無期限休刊を申し渡された。
三月、文科生七十一名中、第四十六席の成績で弘前高校を卒業。
四月、東京帝国大学仏文科に入学。府下戸塚町諏訪(現在の高田馬場付近)の学生下宿常盤館に止宿。
五月、高校の先輩、工藤永蔵の訪問を受けて共産党のシンパ活動に加わる。
この頃、かねてから尊敬していた井伏鱒二にはじめて会い、以後師事する。
六月、三兄圭治病没(結核性膀胱カタル、肺結核兼尿路結核症)。(二十八歳)
七月、「学生群」を青森地方の同人雑誌「座標」に発表(十一月まで連載して中断)。
十月、青森の芸妓紅子こと小山初代が太宰の手引きによって出奔。上京した長兄文治は分家除籍を条件に初代との結婚を承諾、落籍のため一旦初代を青森へ連れ帰る。
十一月十九日、分家届出、除籍される。
二十四日、小山家と結納を交わす。
二十八日、義絶の真因がシンパ活動にあることを知った太宰は、二十八日夜半頃、銀座のバー・ホリウッドの女給田部シメ子(通称田辺あつみ)と、鎌倉七里ヶ浜小動崎畳岩にてカルモチン自殺を図る。二十九日朝、苦悶中に発見される。女は死亡。七里ヶ浜恵風園療養所に収容される。自殺幇助罪に問われ、起訴猶予となる。
十二月、碇ヶ関温泉で、小山初代と仮祝言を挙げる。
この年から、青森の同人文芸総合雑誌「座標」に一月から傾向小説「地主一代」を三回までと、七月から「学生群」を四回まで連載したが、長兄から圧力が加わり、いずれも未完のまま中絶。筆名大藤熊太。


昭和六年(1931)二十二歳

二月、小山初代が上京。品川区五反田の借家に新所帯を持つ。
共産党への資金カンパ、会合場所の提供などシンパ活動を続ける。
六月、アジト保安の理由から先輩の進めに従って、神田同朋町に、さらに晩秋、神田和泉町に移転する。


昭和七年(1932)二十三歳

 党関係者からの指示や官憲に対する恐怖心からたびたび移転す。
六月、同棲以前の初代の過失を知り、ショックを受ける。
七月、東京でのシンパ活動及び、甥たち青森中学社研活動との関係で青森警察署から出頭を求められ、長兄同伴で出頭し、取調べを受ける。いわゆる自首事件である。以後、非合法活動から離脱。
八月、静養を兼ねて、初代と静岡県静浦村の坂部啓次郎方に約一ヶ月滞在、処女作「思い出」を執筆す。
九月、芝区白金三光町の借家に移住、同郷の飛島定城一家と過ごす。
十二月、青森検事局に出頭。完全に非合法運動から離れる。


昭和八年(1933)二十四歳

二月、同人雑誌「海豹」参加。
 東奥日報付録「サンデー東奥」に、初めて太宰治の筆名で「列車」を発表。乙種懸賞創作入選となり、五円を得る。
 飛島家とともに杉並区天沼三丁目へ、さらに五月、天沼一丁目へ移転する。
三月、古谷綱武、今官一、木山捷平等の始めた同人雑誌「海豹」創刊号に「魚服記」を発表。四月から同誌に「思い出」を連載する。「海豹」は十一月号で廃刊になる。
七月頃、檀一雄と知り合う。伊馬鵜平(春部)、中村地平等を知る。
十二月、大学卒業予定の年であるが留年し、長兄に仕送りの延期を哀願する。卒業の見込みがないことを知られ、激しく叱責された。


昭和九年(1934)二十五歳

四月、古谷綱武、檀一雄編集の季刊同人誌「鷭」に「葉」、七月に「猿面冠者」を発表。
夏、静岡県三島市の坂部武郎方に約一ヶ月滞在、「ロマネスク」を執筆。
九月、同人誌「青い花」の発刊を企画、今官一等とともに熱中す。
十二月、檀一雄、木山捷平、中原中也、津村信夫、小山祐士、今官一、久保隆一郎、伊馬鵜平、山岸外史等と同人雑誌「青い花」を創刊。「ロマネスク」を発表。創刊号だけで廃刊となり、翌十年五月、「日本浪曼派」に合流。

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昭和十年(1935)二十六歳

二月、「逆光」を文芸に発表、同人雑誌以外に発表した最初の作品である。
三月、大学卒業は絶望、都新聞社の入社試験にも失敗。単身鎌倉に行き、鎌倉山で縊死を図り、未遂に終わる。
四月、急性盲腸炎のため阿佐ヶ谷の篠原病院に入院。手術を受けたが腹膜炎を併発して重体に陥る。痛み止めのためパビナール(麻薬性鎮静剤)の注射を打ち、漸次習慣化する。
五月、檀一雄、山岸外史ら「青い花」の仲間とともに、「日本浪曼派」に加わる。同誌に「道化の華」を発表。
六月、静養のため、経堂病院に入院。
六月、千葉県東葛飾郡船橋町(現・船橋市)に転地。
七月、「文芸」掲載の「逆光」が芥川賞候補にあがる。
八月、芥川賞次席(受賞は石川達三の「蒼茫」)であった。
佐藤春夫を知り訪問、以後師事する。
九月、授業料未納により、東京帝国大から除籍される。
十月、「文藝春秋」に「ダス・ゲマイネ」を発表。また、同誌九月号の川端康成の「芥川賞」選評をよんで激怒。反論を「文芸通信」に発表した。
この頃、パビナール中毒に苦しむ。
この年、京城にいる田中英光と手紙による交友関係が始まる。
八月、エッセイ「もの思ふ葦」(日本浪曼派、十二月完結)、十二月、「地球図」(新潮)。


昭和十一年(1936)二十七歳

二月十日、パビナール中毒治療のため、佐藤春夫の紹介で済生会芝病院に入院。二十日、全治せぬまま退院。
六月、砂小屋書房から第一創作集「晩年」を刊行。
七月十一日、上野・精養軒で「晩年」の出版記念会を行う。
八月、パビナール中毒と肺病治療のため赴いた群馬県谷川温泉で、第三回芥川賞落選を知り打撃を受ける。第三回芥川賞の選考を巡って、選考委員佐藤春夫との間に「創生記」と「芥川賞」による応酬あり。
十月、井伏鱒二らの進めにより東京江古田の武蔵野病院に一ヶ月入院し、「慢性パビナール中毒症」を治療。入院中、妻初代姦通を犯す。
十月、「創生記」を「新潮」に、「狂言の神」を「東陽」に発表。
十一月、中毒を根治して退院。
 その前に、長兄文治と面会、月々の送金を九十円として、三回に分けて三年間井伏鱒二宛に送付するとの約束があったという。
 杉並区天沼の碧雲荘に転じる。


昭和十二年(1937)二十八歳

一月、「二十世紀旗手」を「改造」に発表。
三月、入院中の、初代の過失を知り、ショックを受ける。初代と谷川温泉近くでカルモチン心中を図ったが未遂。その後、初代は井伏家に滞在。二人は別居する。
四月、「HUMAN LOST」を「新潮」に発表。
五月、長兄文治が衆議院選に政友会候補として立候補。当選したが、選挙違反を問われ辞退。公職から身をひいた。
六月、「虚構の彷徨」「ダス・ゲマイネ」(新潮社)を刊行。初代と離別。天沼の下宿、鎌滝方に移る。
七月、「二十世紀旗手」(版画荘文庫)を刊行。その後、翌年にかけ、時折エッセイ等を書くほか、ほとんど筆を絶つ。

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昭和十三年(1938)二十九歳

 原稿が売れず、取り巻きを相手に無為の日々を過ごす。
七月、井伏を通じて縁談が持ち込まれ、これを契機に明るい作風への転換を図る。この頃、「姥捨」を書き始める。
八月十一日、金木銀行売収。
九月、「文筆」に「満願」を発表。
 鎌滝家の下宿を引き払い、井伏鱒二が滞在していた山梨県南都留郡川口村(現・河口湖町)御坂峠の天下茶屋に赴く。長編「火の鳥」の執筆に専念したが、結局この小説は未完に終わる。
十八日、井伏同伴で甲府市の石原家を訪問、石原美智子と見合いす。
十月、「姥捨」を「新潮」に発表。
十一月六日、石原家で酒入れ式(婚約披露)を行う。
十六日、御坂峠をおりて、甲府市内の素人下宿に移る。


昭和十四年(1939)三十歳

一月八日、杉並区清水町の井伏宅で、簡素な結婚式を挙げる。仲人は井伏夫妻。
その日のうちに、甲府市御崎町五十六番地で新婚生活に入る。その後、落ち着いた生活の中で失地回復を願いながら執筆に専念す。 二月、「文体」に「富獄百景」を発表。
三月、「國民新聞」に「黄金風景」を発表。この作品は、同新聞主催の短編小説コンクール参加作品であり、当選して翌月五十円を得た。
四月、「文学界」に「女生徒」を発表。
六月、美知子と信州を旅行。
六月、「若草」に「葉桜と魔笛」を発表。
七月、短編集「女生徒」(砂子屋書房)を刊行。
九月、東京府北多摩郡、三鷹村(現・東京都三鷹市)下連雀百十三番地の借家に移転。ここが終の栖となる。
 近くの吉祥寺に亀井勝一郎の住まいがあり、親交を持った。
十月、「文学者」に「畜犬談」を発表。
十一月、「文学界」に「皮膚と心」を発表。
十二月、この頃から阿佐ヶ谷将棋会に出席。将棋は早指しで、強くなかったといわれる。
 書き下ろし創作集「愛と美について」(五月、竹村書房刊)など発表。


昭和十五年(1940)三十一歳

 友人知己との小旅行や会合、あるいは、依頼講演など、出歩くことが多くなる。原稿依頼も増え、次々に安定した作風の佳作を発表す。
一月、「月刊文章」に「女の決闘」を連載開始(六月完結)。「新潮」に「俗天使」、「婦人画報」に「美しい兄たち」(後に「兄たち」と改題)。「知性」に「鴎」、「文芸日本」に「春の盗賊」などを発表。
二月、「中央公論」に「駆込み訴へ」を発表。
三月、田中英光が訪問。以後、太宰に師事する。
四月、短編集「皮膚と心」(竹村書房)刊行。日比谷・松本桜にて、山岸外史著「芥川龍之介」の出版記念会があり幹事を務める。井伏鱒二、伊馬鵜平らと群馬県四万温泉に遊ぶ。
五月、「新潮」に「走れメロス」発表。
六月、「思ひ出」(人文書院)、「女の決闘」(河出書房)を刊行。
七月、伊豆湯ヶ野の福田屋旅館に入り「東京八景」の執筆を始める。滞在費を持って迎えに来た美知子とともに帰郷途中、鮎釣りで谷津温泉に滞在中の井伏鱒二、亀井勝一郎を訪ねて河津川氾濫による水害にあう。
 この頃、随想「六月十九日」発表。
八月、「金木郷土史」を金木町が出版する。
十一月、「新潮」に「きりぎりす」を発表。小山清が三鷹の家を訪ねて師事した。
 新潟高校の招きで講演。佐渡に寄って帰る。作品を読んだ若者が訪ねて通うようになるのはこの頃からである。
十二月、前半刊行の「女性徒」により北村透谷賞の次席になる。第一席は萩原朔太郎の「帰郷」であった。
三月、「老ハイデルベルヒ」(婦人画報)
四月、「善蔵を思ふ」(文藝)
五月、「乞食学生」(若草、十二月完結)
十二月、「ろまん燈籠」(婦人画報、十六年六月完結)


昭和十六年(1941)三十二歳

 落ち着いた作風で、文壇に地歩を築いたのを背景に青春への訣別と今までの総決算として、一月「文学界」に「東京八景」を、「知性」に「みみずく通信」、「公論」に「佐渡」、「新潮」に「清貧譚」を発表。美知子と伊東(伊豆)温泉に一泊旅行をする。
一月一日、「西北新報」に「五所川原」を発表。
一月十日、「月刊東奥」に「青森」を発表。
二月からは、懸案の長編小説「新ハムレット」の執筆を始め、五月完成。
五月、「東京八景」(実業之日本社)を刊行。
六月七日、長女園子誕生。
七月、近くの歯科医院へ歯の治療に通う。書き下ろし長編「新ハムレット」(文藝春秋)を刊行。
八月、生母タ子を見舞うために十年ぶりで帰郷。除籍の身もあって、五所川原の叔母の家や親戚宅に宿泊した。「千代女」(筑摩書房)を刊行。
九月、太田静子らの訪問を受ける。友人と共に太宰家を初めて訪問。
十一月、文士徴用令書をうけたが、胸部疾患「肺浸潤」の理由で徴用免除。井伏鱒二は、陸軍徴用員として入隊。シンガポールに行くことになる。
十二月、弟子、堤重久からその弟の日記四冊を借りた。後の、「正義と微笑」はこの日記を基にしている。
十二月八日、太平洋戦争開戦、「十二月八日」(婦人公論)を執筆。

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昭和十七年(1942)三十三歳

母・タ子

 このころ、壁にぶつかっていたか、聖書に言及した作品が多くなる。十月、「花火(戦後「日の出前」と改題)を「文藝」に発表したが、「待つ」と「花火」は時局に添わないという理由で前文削除を命ぜられる。執筆のため、たびたび小旅行をする。
一月、三百部限定の私家版「駈込み訴へ」を刊行。
三月、「正義と微笑」を脱稿する。
五月、「改造」に「水仙」を発表。短編集「老ハイデルベルヒ」(竹村書房)を刊行。
六月末頃から、点呼召集を受け、突撃訓練や軍人勅諭の暗誦に煩わされる。
十月下旬、生母タ子重態のため、生家に人々とは初対面の妻子を同伴して帰郷。義絶も自然解消す。
十一月、井伏鱒二が徴用解除で帰国。
十二月、井伏と熱海に遊ぶ。母危篤の報に、単身帰郷。
十日、母死去。六十九歳。生家に滞在して帰京する。(二週間)
十一月、「帰去来」
四月、「風の便り」短編集(利根書房刊)。
六月、「正義と微笑」書き下ろし長編(錦城出版社刊)


昭和十八年(1943)三十四歳

一月、「現代文学」に「禁酒の心」、「新潮」に「故郷」、「文学界」に「黄村先生言行録」を発表。短編集「富嶽百景」(新潮社)を刊行。
一月中旬、亡母法要のため妻子と共に帰郷。
時局柄、他人の日記や史実、伝説」などに取材した作品が多くなる。
一月二十日、桜岡孝治著「馬来の日記」が刊行され、「序」を寄稿。
三月、甲府に赴き、前年末より執筆中の書き下ろし長編、「右大臣実朝」を完成。
四月、友人塩月赳の結婚式では仲人役も務める。

九月、「文筆」に「満願」を発表。「右大臣実朝」(錦城出版社)を刊行。この年は、執筆・取材の小旅行に出かけることが続いた。 十月、「雲雀の声」を完成したが、検閲不許可の恐れがあるため出版を延期。
翌年、ようやく出版の運びとなったが、印刷所が空襲に遭い、発行間際の本が焼失。昭和二十年に発表された「パンドラの匣」は、この作品の校正刷りをもとにして執筆された。


昭和十九年(1944)三十五歳

「庭」の題材にもなった、津島邸北庭

 「改造」に「佳日」、「新潮」に「新釈諸国噺」を発表。文学報国会小説部会の協議会に出席、以前からの構想にあった魯迅伝を書くことを決意。魯迅の研究をする。
 東宝から「佳日」の映画化依頼を承諾。熱海で脚本家と共に脚色にあたる。その帰途神奈川県下曽我村の太田静子を訪ねる。
 戦争激化の中、たびたびの帰郷で故郷回帰の思いが強くなる。
五月十二日~六月五日にかけて、小山書店「新風土記叢書」の「津軽」執筆のため、津軽地方を旅行、自身の津軽の血に自信に似たものを得て帰京。
七月、先妻小山初代、中国青島で病没。三十二歳
七月末、「津軽」完成(十一月刊行)。
八月十日、長男正樹誕生。
九月、「佳日」が映画「四つの結婚」と題して封切られる。
十月から、翌年三月まで防火群長に就任(順番制)した。
十二月、情報局と文学報国会の依頼で「惜別」を執筆。仙台医学専門学校在学当時の魯迅を調査するため仙台に赴く。
 この年、井原西鶴の翻案物を発表。


昭和二十年(1945)三十六歳

 東京空襲が激しくなる。三月下旬には、妻子を実家の甲府に疎開させる。
四月、三鷹の家が空襲に遭う。防空壕と家屋の一部損壊。妻子のいる甲府・石原家に疎開する。疎開先で井伏鱒二と交遊。東京で執筆し始めた「お伽草紙」を六月、完成。
七月、爆撃のため甲府の石原家も全焼。
同月下旬、妻子を連れかろうじて津軽の生家へ疎開。四昼夜かかって生家に辿り着く。
八月十五日、終戦。「ばかばかしい」を連発した。生家で畑の草取りの手伝いなどしながら、読書や執筆に専念する。翌年十一月まで生家の離れ(新座敷)で疎開生活をおくる。
九月、書き下ろし長編「惜別」(朝日新聞社)刊行。
十月、仙台の「河北新報」に「パンドラの匣」の連載を始める。書き下ろし連作長編「お伽草紙」(筑摩書房)を刊行。
十一月十四日、きやう逝去。
十二月、連合軍総司令部(GHQ)が農地改革を指令。
 この年「新釈諸国噺」発表。


昭和二十一年(1946)三十七歳

 依頼を受けて、各種座談会などに出席。
 地元の文学青年や東京の知友の訪問が多くなる。長兄文治が立候補予定の衆議院議員選挙を前にして各地で座談会に出席した。
一月、「パンドラの匣」を予定の半分で切り上げ、郷里に取材した作品「津軽通信」に取り組む。
三月二日、金木で進歩党演説会に参加。三日の金木文化会発会式に出席し「文化とは何んぞや」と題して祝辞を述べる。
四月、「十五年間」(文化展望)。
六月、長男正樹が急性肺炎に罹り、生死の間を彷徨する。「展望」に戯曲「冬の花火」、「新文芸」に「苦悩の年鑑」を発表。「パンドラの匣」(河北新報)を刊行。
七月四日、祖母イシ逝去。享年九十歳。
九月、「人間」に戯曲「春の枯葉」を発表。
十一月、疎開生活を切り上げて上京、留守を預かっていた小山清に出迎えられ、三鷹の旧居に帰る。この頃より、没落する旧家の悲劇を主題にした「斜陽」の構想を持つ。連日の来客に煩わされ、外に仕事部屋を作る。
 「新潮」への「斜陽」の連載、新潮社刊行を約束。上京後の第一作「メリイクリスマス」を脱稿。
坂口安吾、織田作之助、平野謙との座談会『〝現代小説〟を語る」に出席。翌年、「文学季刊」に掲載。同じ顔合わせで実業之日本社と改造社主催の二つの座談会を作った。
十二月、「改造」に「男女同権」、「新潮」に「親友交歓」を発表。東劇にて上演予定の「冬の花火」はGHQの意向で中止になった。


昭和二十二年(1947)三十八歳

一月、太田静子の訪問を受ける。
 「群像」に「トカトントン」、「中央公論」に「メリイクリスマス」を発表。織田作之助が急死(肺結核)。三十四歳。通夜に出席。骨を拾った。「東京新聞」に「織田君の死」を発表。「猿面冠者」(鎌倉文庫)刊行。
二月、下曾我に太田静子を訪ねる。大雄山荘に五日間滞在。静子の日記を借りて三津浜安田屋に止宿。「斜陽」を書き始めた。三月上旬までかかって一・二章を書く。
三月、「展望」に「ヴィヨンの妻」を発表。三鷹駅前で山崎富栄(二十八歳)と知り合う。
三月三十日、次女の里子(作家、津島佑子)誕生。
四月、「人間」に「父」を発表。長兄文治が青森県知事に当選(以後、三期連続九年間知事を務める)。
四月、新たに借りた三鷹の仕事部屋で「斜陽」を書き継ぎ、六月に完成。この頃から不眠症に悩まされる。
五月、「春の枯葉」が、伊馬春部の脚色・演出でNHK第二放送からラジオ放送された。
七月、「新潮」に「斜陽」を連載開始(十月完結)。この頃に、仕事部屋を小料理屋「千草」の二階に移す。
 「冬の花火」(中央公論社)刊行。「パンドラの匣」が大映により「看護婦日記」として映画化された。
八月、「ヴィヨンの妻」(筑摩書房)刊行。体調を崩して自宅に引き籠もる。
九月、熱海への一泊旅行に山崎富栄を同伴した。仕事部屋を「千草」の筋向いにあった山崎富栄の部屋に移す。
十月、「改造」に「おさん」を発表。「魚服記」以来、自ら記録し続けてきた「創作年表」は、この作品で断たれている。
十一月十二日、太田静子に女児誕生。その後、山崎富栄の部屋で「治子」と命名して認知証を書いた。
十二月、「斜陽」(新潮社)刊行。ベストセラーになる。
七月、「朝」(新思潮)


昭和二十三年(1948)三十九歳

一月上旬、肺結核が悪化し喀血。「中央公論」に「犯人」、「光」に「饗応夫人」、「地上」に「酒の追憶」を発表。
二月、俳優座創作劇の第1回講演として「春の枯葉」が千田是也演出で上演される。
三月、「新潮」に連載随想「如是我聞」を発表。筑摩書房の古田晁のはからいで、熱海市咲見町林ヶ久保の起雲閣別館にこもり「人間失格」を執筆。
「太宰治随想集」(若草書房)を刊行。
四月、八雲書店から「太宰治全集」の第一回配本(第二巻)。この全集には、生家の津島家の定紋「鶴丸」が金箔押しされた。しばしば喀血する。
五月、「新潮」に「桜桃」を発表。大宮で「人間失格」を脱稿。「朝日新聞」の連載小説「グッドバイ」の執筆を始める。
六月、「展望」に「人間失格」の連載を開始。
六月十三日夜半、山崎富栄と玉川上水に入水。十四日、妻、「千草」の鶴巻幸之助、出版雑誌社、友人宛などの遺書がみつかる。伊馬春部に遺した歌が机辺にみつかった。三人の子供たちへの玩具、友人たちへの遺品、「グッドバイ」の校正刷りなども残されていた。
十九日早朝、遺体発見。引き揚げ。戸籍によると、死亡推定月日は昭和二十三年六月十四日午前零時となっている。昼頃「千草」の土間にて検死。堀之内火葬場で遺体を焼く。その日、骨が自宅に届けられる。
二十一日、葬儀。葬儀委員長豊島与志雄、副委員長井伏鱒二、その他作家、出版関係者、友人らが多数参列した。
七月十八日、三鷹市下連雀の黄檗宗禅林寺に葬られる。
 法名、文綵院大猷治通居士。この月「展望」に「人間失格」の第二回が、「朝日新聞」に「グッドバイ」が発表され、「人間失格」(筑摩書房)、「桜桃」(実業之日本社)が刊行された。「展望」に「人間失格」第三回、〈中央公論〉に「家庭の幸福」が発表された。
十一月、「如是我聞」(新潮社)刊行(二十五年一月完了)。
遺体の上がった六月十九日に桜桃忌と名づけられた太宰治を偲ぶ会が翌年から催されるようになった。


昭和二十四年(1949)

六月、墓碑建立。
 碑面には、太宰治自身の署名を拡大して「太宰治」とだけ刻まれ、深い尊敬を寄せていた森鴎外の墳墓の前に建てられた。

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